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大論争10月号を開始します。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [10月1日(月)00時50分34秒]

みなさんの活発な議論を期待いたします。


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Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月5日(金)17時21分19秒]

元の発言 [ Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月5日(金)14時56分00秒 ]

>> 三国志では張松が劉備に精細な絵巻の地図を与えたことに
>> なっていますが、これは作り話ですか?

>> 方という計算の考え方は?
>> りっぱな算術だと思いますが。

方と言うのは、まったく分かりませんけど、

司馬遷の史記に始皇帝の暗殺未遂事件がありましたね。
この時、刺客のケイガは、領土を割譲する証拠の地図を持参して益したよね。
また、地図だけでは、政にはあえないと言って首を持参することで合うことができたんじゃなかったのかな?

当然、戦国時代から戦争用に地図が作られていたんですね。



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Titleトンデモ(その5)北方世界の変容と日本海航路

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月17日(水)17時26分56秒]

今回は日本海航路と、山陰地方の祭祀勢力についてトンデモします。

日本国内で弥生後期に入って最も大きな変貌をとげたのは、
北部東北地域では無いかと思います。
この地域では弥生前期には遠賀川式土器の流入があり、砂沢遺跡などに見るように、
水田稲作が開始されました。
土器としては縄文以来の伝統を強く残すものが中心で、いわば水田稲作を受け入れた
縄文文化というべきものかも知れませんが、稲作を中心とした生活体系を
もっていたという意味で弥生文化の範疇に入る文化が早くも弥生前期に普及しています。

しかしこの水田稲作の伝統は、続く弥生中期まではたどれますが、弥生後期に入ると
途絶えてしまいます。
弥生後期に入ると天王山式と呼ばれる土器が、南は北陸・関東地方から北は北海道まで
分布します。
同時期の北海道では独特の後北式と呼ばれる、いわゆる続縄文土器が発生し、
やがて弥生後期後半になると、この土器が一気に新潟・福島のあたりまで南下してきます。
こうして日本の東北北部以北は、それ以南の稲作文化圏から離れ、独特の蝦夷(毛人)の
文化圏を構成してゆきます。

現在推定されているところでは、弥生の稲作はそれほど生産性が高くなく、
食生活の米に依存する比率は小さかったようです。
それでも一度は成立した水田稲作が不成立になった社会的衝撃は相当に大きかったのでは
ないでしょうか。
水田稲作が不成立になった理由としては、弥生後期からの小氷期による気候の寒冷化が
挙げられています。
弥生後期に入って、日本の弥生社会が全体に大きな変化を受けるのは、この寒冷化が
一因かもしれません。
しかし最も激しい打撃を受けたのが、稲作の北限地帯だった訳でしょう。

弥生後期になって広域化する天王山式土器は、ある意味で弥生終末期の日本で起こった
土器の流動化のはしりと言えるかもしれません。
西日本が弥生後期に入ったころから、日本の北方世界は大きな変容をとげます。
後北式の時期になると、竪穴住居が消え、定住性の生活から移動性の生活へ変化した
可能性があります。
農耕生活から、狩猟採集への変化が起こったわけです。
最大の要因は気候変動だったでしょうが、南方に成立した強力な稲作経済圏との
生業的な住み分け、交易が盛んになったことも事態に拍車をかけたでしょう。
はっきりとした証拠はありませんが、石器の動向などから、南方稲作世界の鉄器が
重要な交易品として、北方世界の獣皮や琥珀等と交換された可能性も指摘されています。
おそらく鉄器は移動性の高い狩猟民にとって、極めて価値の高いものだったでしょう。

http://www09.u-page.so-net.ne.jp/rf6/jf1/k7.htm

この時代の東北にはほとんど鉄器の出土はありませんから、流入した量は極めて少量で
貴重品として、莫大な交換財と取引されたでしょう。
このような稲作社会とは異質な社会の産物は、後の時代にも西日本社会では珍重されます。
弥生後期においても、西日本社会は流入する北方産品に大きな影響を
受けたのではないでしょうか。
つまり北方社会が稲作社会から分かれ、独自の経済圏を作ったことが、かえって
列島全体の交易を活発化させたのではないでしょうか。

弥生後期の列島の経済的中心である北部九州と、北方社会を結ぶ最短コースは
日本海航路になります。

http://osaka.yomiuri.co.jp/kodai/jyo/old/tokusyu/tokusyu.htm

これが弥生後期にはいって、鉄の道として山陰北陸が急速に浮上してくる原因と考えます。

古くからの東西交易のルートである瀬戸内では、弥生中期末あたりから、高地性集落の
発達などから、社会の変容がすすんでいたでしょうが、山陰ではこの影響をうけながら
やや遅れて、瀬戸内とは異なる形で、広域社会の形成が進んでいったと思います。

その一つの現われが、四隅突出型墳丘墓ではないでしょうか。
弥生中期には中国山地の一角に過ぎなかった分布が、石見から因幡まで広がってゆきます。
ただ瀬戸内との地勢的な違いから、社会の構成は異なったものになっていたのではないでしょうか。
山陰地域がどの程度の一体性を持っていたのか、具体的な説明は出来ませんが、
後に私の年代で170年頃には、吉備などでは傑出した盾築が生まれるのに対して、
山陰では各地域に同程度の墳丘墓が並び立ちます。
一つの航路を共有すると言う意味で、海運業組合とでも言うか、
瀬戸内とは構造が違うように感じます。
とりあえず、石見から因幡まで、間に伯耆をはさんでイのつく国名が並んでいるので、
山陰のイ組とでも呼びます。
この地域の弥生後期の墓の総体積は、地域時期別に比較すれば、目立つものになるのでは
ないでしょうか。
一時期西日本社会の中で大きな存在であったと考えます。

やや遅れて但馬、丹波などに共通の文化圏が出来てくるので、これはタ組としておきます。

私の30年ずり上げ年代で、2世紀初頭には、妻木晩田がほぼピークに近く発展してきます。

http://www.wnn.or.jp/wnn-history/muki/gozen/kouko4.html

この時代出土する鉄器の量などからみても、中国地方の発展は著しいものがあるでしょう。

山陰は開発が遅れたのか、最近になって大発見が相次ぎます。
今最もポテンシャルを感じる地域です。

(息切れ気味ながらもなおもつづく)


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月17日(水)17時34分45秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月17日(水)07時28分08秒 ]

>> と言う事はスサノオ神話は7,8世紀の畿内事情を反映している?
>> 三世紀頃はまだ存在していなかった新羅を往復していますしね。

スサノオと製鉄集団との関係についても言きゅうされてましたね。
ちと気になることが有るんです。

蹈鞴衆の祭る神に金屋子の神と言うのが有ることはご存知の事と思います。
この、神様の祭儀は、すぐ現代も続いてるんですが、
この神様、かなり恐ろしい神様なんですね。

この神様とスサノウの祭儀との関係はというのが、大きな疑問なんです。
何かご存知ありませんかね?

この神様、例外的に人の死と死体を好む神様なんですが、
近代まで、日本においては、殺人祭儀の一端が、残っている祭だと思うんです。

諏訪の神様の、祭も同じですが、壱年神主の伝説。
子供を馬に乗せて引き回し木に縛りつける儀式も残っているらしいですね。

また、諏訪の神様とも縁が深いと言います。
と言うことは、古代においてスサノウの祭も血なまぐさい物だったのかも


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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月17日(水)22時23分20秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月16日(火)22時41分26秒 ]

>> >> >> >> >> いや昔、銅鐸文化圏と銅矛文化圏に別れているとか、文化圏の対立があったかのような話があったと思いますが、出雲だけが両方並存出来た理由は何だろうと言う事です。
>>  出雲で銅鐸祭器とする風習が残ったと考えては?記紀を見ると出雲は独立性たかそうな雰囲気前方後円墳体制にはいったのは一番遅そうな感じで一字代昔の風習に残りやすいという憶測はどうですか
>> 或時期に畿内と限らず北九州も大型武器型祭器を主とする
>> 風習が卓越した。
??、畿内で大型武器型祭器の風習があったんですか。九州に大型銅鐸が無かったと同様、畿内には武器型祭器は無いでしょう。

>> >> >> そうそのとおり(外野からの声)
>> >> >> >> 昨今では、従来いわれていた銅鐸、銅矛、銅剣といった
>> >> >> >> ものが、ますます混ざっていたことがわかっているし、
>> >> >> 弥生時代を勢力圏を3分法2分法そういうの捉え方が古い
 弥生中期には、土器には広い地域に共通性が見られるし、青銅器も初期の段階には、近畿でも北部九州銅鐸を作っている。
 それが次第に、それぞれの地域が、独自の祭りの形態を持つようになり、北部九州では銅矛・銅戈が中心となる。
 出雲には出雲型銅剣、瀬戸内には平形銅剣という独自の祭器が出てきます。
 勢力と言えるものの無い状態から、地域ごとの纏まりが出来、次第に大きくなって地域勢力化したのだから、
 大きな平野を中心とする幾つかの勢力圏があった時期は当然あるでしょう。
 だからこそ「倭国大乱」があり「一女子共立」があるんでしょう。「乱」も「共立」も複数の勢力があったからじゃないですか。

>> >>  ただし、九州のは“聞く銅鐸”ばかりで近畿のような“見る銅鐸”はありません。
>> やはり地理上の距離による時間差とかんがえられませんか?
 レスした通り、初期には鐸と武器の両方が入っています。
 九州では武器が、近畿では鐸が大型化して祭器になっています。時間差はないでしょう。
 このことは、単独厚葬墓の有無と同じく社会体制の違いからくる祭形態の違いと言う人もいます。
 どちらも最後は鏡祭祀になってますけどネ。
 単独厚葬墓に鏡を大量副葬するのは北部九州が最初ですネ。墳丘を造ること自体がそうか。 


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月17日(水)23時25分26秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月17日(水)07時28分08秒 ]

>> 三内丸山は植林の目的は食料の確保ですね。
>> それに対して神話=7,8世紀は建築資材(スサノオの体毛から生えた樹木類)が目的。


紀によると,船材が主目的です。
船(「浮宝」)というのは,「韓地の金銀」に対応した表現ですから,
船材が主目的と見て間違いないです。

製鉄(たたら式)で木を伐ったために山が荒れた,という説はありますが,
日本の史実として明瞭なのは,ずっと後世のことらしいです。

このため,中国地方などでは山の計画的な利用が進められ,
近世たたら式では,専門の炭焼き関係者が従事していた,と。

ところが,その木炭の原木は,コナラを主としたようです。


燃料としての木炭にコストがかかり,言い伝え通り,
木炭の供給が鍵を握っていた,と。

量的には,鉄1トンに対し木炭6トンとの説があります,

製鉄技術史(1) --- 古代のレン炉から近代製鉄法までの歴史
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron/History_of_Iron_19990324.html


ただし,100キロの鉄をとるのに木炭600キロ,と直せば,
さほど大した量の木炭とは思えませんが,,,(^^;


ところで,以下のサイトでは,たたら式の実験に,松炭を使ったそうです。

たたら炉で鉄づくり
http://www.muroran-it.ac.jp/mat/momo/tatara.html


松と言えば,ヤマタノオロチには,
松柏(まつかへ)とか石松(いはまつ)が生えていた,
とある点が気になります。

しばしば推理されているように,

ヤマタノオロチの尾からは,
いわゆる良質の草薙剣が出てきたわけですから,
この怪物の正体は先進の金属集団か,
とも考えられますからね。

御説のような主張は,kamnabiさんのところと,もう一軒ありましたが,
出典等がないので,裏付けという点で再調査中です。

針葉樹の木炭は火力が強い,という一説が昔はあったが,
最近では同じと言う説も見かけました。

この辺は,詳しい人に訊いたほうが早そう,,,(^◇^)

>> 杉は生長が早いので切迫した需要に対応するため植林に使われたのでしょう。


あるいは,製材しやすいそうです。

薪(薪炭材)には,ふつう,親木を伐り死なすことなしに,
20年すれば幹の生えてくるコナラ,カシ,クヌギとか,
なにかを使うそうです。

今では,木炭は産業用には廃れたので,
原木をシイタケ栽培用に転じて利用しているそうです。

>> と言う事はスサノオ神話は7,8世紀の畿内事情を反映している?
>> 三世紀頃はまだ存在していなかった新羅を往復していますしね。


岩波文庫版第99頁に,スサノヲの件の段で,
新羅国名初出とあります。その補注によると,
新羅国の前身である斯廬国には,
前57年開国の伝承があり,
日本でのシラギなる呼び方は,新羅国成立以前からの,
この斯廬国のほうに対応したものと推定できるそうです。

ですから,前1世紀までは遡り得るでしょう。

一つの推理としては,

半島に漢人が来て伐採を始めたので韓国も禿山になった,
困っている,という言い伝えや,

ならば,木の豊かな日本から種を持っていって森を育てようか,
というような動き,

などを反映しているのではないでしょうか。

なぜ漢人が木を伐るのか,と言えば,
大船団を造って商売し,国家を経営するためだと聞いて,

ヤマッケを発した人々がいたのでしょう。


>> 漢はなぜ半島でそれほどの木を必要としていたのでしょう。
>> 船を作るだけではないと思いますが。大船団を作らなければならない事情があったようには思えませんが。


これは知られた話で,海の交易路を握っていたわけです。

ただし,金属関連の薪炭用にも使ったでしょうけど。

>> 半島の木を船の為に切り尽くしたのは元と聞いていますが。


漢民族は,漢時代以来,ずっと伐り倒してきた,ということです。

漢民族とは言うものの,戦後,韓国では,
日本の指導で植えた木を伐り倒して禿げ山にしてしまった,
という後日譚もウワサされていますが。




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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月18日(木)07時20分44秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月17日(水)22時23分20秒 ]

>>  弥生中期には、土器には広い地域に共通性が見られるし、青銅器も初期の段階には、近畿でも北部九州銅鐸を作っている。

弥生初期、中期までは倭人の海洋性民族の特徴が現れて情報の共有が出来ていた。

>>  それが次第に、それぞれの地域が、独自の祭りの形態を持つようになり、北部九州では銅矛・銅戈が中心となる。

弥生後期になると農耕が進み、特に畿内では海洋性民族の特性が失われてしまった。外部情報に疎くなった。

>>  出雲には出雲型銅剣、瀬戸内には平形銅剣という独自の祭器が出てきます。
>>  勢力と言えるものの無い状態から、地域ごとの纏まりが出来、次第に大きくなって地域勢力化したのだから、
>>  大きな平野を中心とする幾つかの勢力圏があった時期は当然あるでしょう。
>>  だからこそ「倭国大乱」があり「一女子共立」があるんでしょう。「乱」も「共立」も複数の勢力があったからじゃないですか。

>> >> >>  ただし、九州のは“聞く銅鐸”ばかりで近畿のような“見る銅鐸”はありません。
>> >> やはり地理上の距離による時間差とかんがえられませんか?
>>  レスした通り、初期には鐸と武器の両方が入っています。
>>  九州では武器が、近畿では鐸が大型化して祭器になっています。時間差はないでしょう。
>>  このことは、単独厚葬墓の有無と同じく社会体制の違いからくる祭形態の違いと言う人もいます。
>>  どちらも最後は鏡祭祀になってますけどネ。
>>  単独厚葬墓に鏡を大量副葬するのは北部九州が最初ですネ。墳丘を造ること自体がそうか。 

銅鐸に関しては畿内と九州に時間差があった事は間違いないでしょう。
九州は何と言っても半島系小銅鐸がでており、これに装飾を施して鑑賞性を持たせるように変化させた。
畿内では九州の鑑賞性を持った銅鐸を輸入してこれを本来の音を出す器から観賞用、礼拝用だけに変化させた。
という経緯だと思います。

これは畿内では情報が不足していて半島で銅鐸がカウベルだと言う事が判っていなかった事を表している。
まさか人間の食料になる動物の首にぶら下げている物を拝むなんて、知っていたら決してやらないでしょう。
弥生時代の畿内の情報後進性を示しているのではないでしょうか。


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Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月18日(木)12時44分57秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月15日(月)21時41分33秒 ]

おにりんさんは、分かっているんだかいないんだか。

>>
#なにをおっしゃりたいのでしょうね(例によっていちゃもんをつけたいだけでしょうね)。
遺伝子(=何かまとまった形質を実現するための結構長いプログラム)が機能しなくなる理由は、いろいろあり得ます。
1)プログラムがスタートしないように抑制する新しいコードが追加された。
2)プログラムをスタートさせる部分が壊れて、全体が機能しなくなった。
3)プログラムの途中一部が壊れて、正しい結果が得られなくなった。
4)プログラムの全体が欠落した。
5)その他バリエーションいろいろ。
プログラムの本体は無傷で残っている場合でも、再び機能する遺伝子を取り戻すのは結構大変でしょう。機能しなくなれば淘汰にもかかりませんから、いつまで無傷でいられるかも心許ない。

>>
>>
>>
>>
#抑制されていると考えるよりは、歯を作る一連のプログラムの始めのほうが失われてしまった、と考えるほうがすなおじゃありませんか。だから発生実験で、歯を作るシーケンスがスタートするような環境を補ってやれば、そこから後のプログラムは昔(1億年前?)のように機能する。

>> #いえ、数百年で死に絶えます。
>>
# 上のように考えればそうじゃないことは明白ですね。
イラン人はあの場所に少なくとも3000年は住んでいますが、いまだに白い肌のままです。まさか布で肌を隠しているから黒い肌が進化しない、わけじゃないでしょう。
進化が目の前で起こることは期待すべきじゃありません。マンチェスターの蛾や、『フィンチの嘴』など、進化じゃありゃしません(例によって、専門家のプロパガンダです)。


>> #あの〜、北回りだの寒冷地適応だのは、遅く見ても3万年前、東南アジア系うんぬんは、早く見ても2万年前、でしょう? ・・・
>>
>>
#(゜ 。? (。 ゜?「数万年前」らな、ますます南に進出する余裕があったわけで。




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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月18日(木)14時25分28秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月17日(水)23時25分26秒 ]

>> >> それに対して神話=7,8世紀は建築資材(スサノオの体毛から生えた樹木類)が目的。
>> 紀によると,船材が主目的です。
>> 船(「浮宝」)というのは,「韓地の金銀」に対応した表現ですから,
>> 船材が主目的と見て間違いないです。

記紀は記載内容が年代を正確に反映していず、前後しているような気がします。
そういえばスサノオの体毛から生えた樹木類には船に適した杉だっけ?も生えましたよね。

>> 製鉄(たたら式)で木を伐ったために山が荒れた,という説はありますが,
>> 日本の史実として明瞭なのは,ずっと後世のことらしいです。

>> このため,中国地方などでは山の計画的な利用が進められ,
>> 近世たたら式では,専門の炭焼き関係者が従事していた,と。

>> ところが,その木炭の原木は,コナラを主としたようです。
>> 燃料としての木炭にコストがかかり,言い伝え通り,
>> 木炭の供給が鍵を握っていた,と。
>> 量的には,鉄1トンに対し木炭6トンとの説があります,
>> ただし,100キロの鉄をとるのに木炭600キロ,と直せば,
>> さほど大した量の木炭とは思えませんが,,,(^^;

木炭と鉄では比重がまったく違いますから、体積比ではかなりの差だと思います。(^^;
さらに木炭1kg作るのに10kgの木を必要とするかもしれない。
とにかく石炭が使われるようになる前の製鉄は自然破壊のきわみだったそうな。
「もののけ姫」はこの製鉄による自然破壊がテーマだそうです。

たたら製鉄はともかく、鉄の融点は1500℃位?で鉄鉱石から、鉄を取り出すにはたたらよりさらに高温になる設備と燃料が必要になります。
中国は砂鉄集めてたたら製鉄やっていたんでしょうか?

>> ところで,以下のサイトでは,たたら式の実験に,松炭を使ったそうです。

>> たたら炉で鉄づくり
>> http://www.muroran-it.ac.jp/mat/momo/tatara.html

>>
>> 松と言えば,ヤマタノオロチには,
>> 松柏(まつかへ)とか石松(いはまつ)が生えていた,
>> とある点が気になります。
>> しばしば推理されているように,

>> ヤマタノオロチの尾からは,
>> いわゆる良質の草薙剣が出てきたわけですから,
>> この怪物の正体は先進の金属集団か,
>> とも考えられますからね。

>> 御説のような主張は,kamnabiさんのところと,もう一軒ありましたが,
>> 出典等がないので,裏付けという点で再調査中です。

>> 針葉樹の木炭は火力が強い,という一説が昔はあったが,
>> 最近では同じと言う説も見かけました。

杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。
年輪のはっきりした大きい木は密度が一定しませんから。
油分が多いせいもあるかな?
キンコン音がするようないい炭にならない。

>> この辺は,詳しい人に訊いたほうが早そう,,,(^◇^)

>> >> 杉は生長が早いので切迫した需要に対応するため植林に使われたのでしょう。

>> あるいは,製材しやすいそうです。

>> 薪(薪炭材)には,ふつう,親木を伐り死なすことなしに,
>> 20年すれば幹の生えてくるコナラ,カシ,クヌギとか,
>> なにかを使うそうです。

>> >> と言う事はスサノオ神話は7,8世紀の畿内事情を反映している?
>> >> 三世紀頃はまだ存在していなかった新羅を往復していますしね。

>> 岩波文庫版第99頁に,スサノヲの件の段で,
>> 新羅国名初出とあります。その補注によると,
>> 新羅国の前身である斯廬国には,
>> 前57年開国の伝承があり,
>> 日本でのシラギなる呼び方は,新羅国成立以前からの,
>> この斯廬国のほうに対応したものと推定できるそうです。

岩波文庫の推測が正しいかどうかは解りません。
新羅、斯廬は朝鮮語でなんと読むのでしょう。「ラ」とか「ロ」はなかったはずですよね。

>> 一つの推理としては,
>> 半島に漢人が来て伐採を始めたので韓国も禿山になった,
>> 困っている,という言い伝えや,
>> ならば,木の豊かな日本から種を持っていって森を育てようか,
>> というような動き,
>> などを反映しているのではないでしょうか。

>> なぜ漢人が木を伐るのか,と言えば,
>> 大船団を造って商売し,国家を経営するためだと聞いて,
>> ヤマッケを発した人々がいたのでしょう。

>> >> 漢はなぜ半島でそれほどの木を必要としていたのでしょう。
>> >> 船を作るだけではないと思いますが。大船団を作らなければならない事情があったようには思えませんが。

>> これは知られた話で,海の交易路を握っていたわけです。

中国は中華思想で自ら外へ出向いて交易をするというより、貢物を持ってくるのを待つようなイメージがありますが。(^^;
国としてでなく商人の話でしょうか?

>> ただし,金属関連の薪炭用にも使ったでしょうけど。



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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月18日(木)17時36分23秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月18日(木)14時25分28秒 ]

>> >> 紀によると,船材が主目的です。
>> >> 船(「浮宝」)というのは,「韓地の金銀」に対応した表現ですから,
>> >> 船材が主目的と見て間違いないです。

>> 記紀は記載内容が年代を正確に反映していず、前後しているような気がします。
>> そういえばスサノオの体毛から生えた樹木類には船に適した杉だっけ?も生えましたよね。

船は、NHK特集の展示会を見に行ったんですが、
直径2mの大木を背割りしてくり貫いた船が展示されていました。
こんな船を作れる木なんて当時でも少ないだろうし。

記紀、感触からすると遣唐船位の構造船を作っていたと言うことでしょうか?

そのくらいの船でないと木の大きさから板材や柱材をとるのは無理なんじゃ?

>> >> 製鉄(たたら式)で木を伐ったために山が荒れた,という説はありますが,
>> >> 日本の史実として明瞭なのは,ずっと後世のことらしいです。

>> >> このため,中国地方などでは山の計画的な利用が進められ,
>> >> 近世たたら式では,専門の炭焼き関係者が従事していた,と。

>> >> ところが,その木炭の原木は,コナラを主としたようです。
>> >> 燃料としての木炭にコストがかかり,言い伝え通り,
>> >> 木炭の供給が鍵を握っていた,と。
>> >> 量的には,鉄1トンに対し木炭6トンとの説があります,
>> >> ただし,100キロの鉄をとるのに木炭600キロ,と直せば,
>> >> さほど大した量の木炭とは思えませんが,,,(^^;

>> 木炭と鉄では比重がまったく違いますから、体積比ではかなりの差だと思います。(^^;
>> さらに木炭1kg作るのに10kgの木を必要とするかもしれない。
>> とにかく石炭が使われるようになる前の製鉄は自然破壊のきわみだったそうな。
>> 「もののけ姫」はこの製鉄による自然破壊がテーマだそうです。

>> たたら製鉄はともかく、鉄の融点は1500℃位?で鉄鉱石から、鉄を取り出すにはたたらよりさらに高温になる設備と燃料が必要になります。
>> 中国は砂鉄集めてたたら製鉄やっていたんでしょうか?

>> >> ところで,以下のサイトでは,たたら式の実験に,松炭を使ったそうです。

>> >> たたら炉で鉄づくり
>> >> http://www.muroran-it.ac.jp/mat/momo/tatara.html

>> >>
>> >> 松と言えば,ヤマタノオロチには,
>> >> 松柏(まつかへ)とか石松(いはまつ)が生えていた,
>> >> とある点が気になります。
>> >> しばしば推理されているように,

>> >> ヤマタノオロチの尾からは,
>> >> いわゆる良質の草薙剣が出てきたわけですから,
>> >> この怪物の正体は先進の金属集団か,
>> >> とも考えられますからね。

>> >> 御説のような主張は,kamnabiさんのところと,もう一軒ありましたが,
>> >> 出典等がないので,裏付けという点で再調査中です。

>> >> 針葉樹の木炭は火力が強い,という一説が昔はあったが,
>> >> 最近では同じと言う説も見かけました。

>> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。
>> 年輪のはっきりした大きい木は密度が一定しませんから。
>> 油分が多いせいもあるかな?
>> キンコン音がするようないい炭にならない。

>> >> この辺は,詳しい人に訊いたほうが早そう,,,(^◇^)

梅干しと日本刀という本をご存知ですか?
この本で読んだんですけど確かに良い炭じゃないようなことが書いてあった気がします。
ただ、細かい粉の炭に近くなり
炭素の粉に近くなるため結果的に火力が強くなると書いてあったと思います。

>> >> >> 杉は生長が早いので切迫した需要に対応するため植林に使われたのでしょう。

>> >> あるいは,製材しやすいそうです。

>> >> 薪(薪炭材)には,ふつう,親木を伐り死なすことなしに,
>> >> 20年すれば幹の生えてくるコナラ,カシ,クヌギとか,
>> >> なにかを使うそうです。

>> >> >> と言う事はスサノオ神話は7,8世紀の畿内事情を反映している?
>> >> >> 三世紀頃はまだ存在していなかった新羅を往復していますしね。

中国のジャンク的な船は、作られている形跡はないし、
やはり遣唐使の船を、思わせますね。
でも不思議だ。あんな船どんな過程の流れで作られるようになったんだろう?


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月18日(木)19時19分42秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 10月18日(木)17時36分23秒 ]

>> >> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。
>> >> 年輪のはっきりした大きい木は密度が一定しませんから。
>> >> 油分が多いせいもあるかな?
>> >> キンコン音がするようないい炭にならない。

>> >> >> この辺は,詳しい人に訊いたほうが早そう,,,(^◇^)

>> 梅干しと日本刀という本をご存知ですか?
>> この本で読んだんですけど確かに良い炭じゃないようなことが書いてあった気がします。
>> ただ、細かい粉の炭に近くなり
>> 炭素の粉に近くなるため結果的に火力が強くなると書いてあったと思います。

なるほど、粉になりやすいと言うのはたたら向きと言えるかも知れませんね。
火力と言うのは燃えやすいと言う事とは相反する所があって(例えばガソリンのオクタン価のように)、粉になると燃焼温度が下がるのではないでしょうか。

>> 中国のジャンク的な船は、作られている形跡はないし、
>> やはり遣唐使の船を、思わせますね。
>> でも不思議だ。あんな船どんな過程の流れで作られるようになったんだろう?

スサノオが三世紀、あるいはそれ以前に来日したかというと、スサノオのもたらした木が船を作ったとしても三世紀の話ではなかったような気がしますね。
遣唐使の頃ですか。


11

Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月5日(金)21時00分05秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月4日(木)15時09分04秒 ]

#はー! やっぱり、おにりんさんとは意見が食い違っているようで、安心しました。

>>
???

>>
#はい。肌の黒い人々です。

>>
>>
>>
#だから、その広がる途中の、多分かなり最初の頃に、高緯度地方に住んでいたのでしょう。

>>
>>
#これは本当ですか?(私には知識がない)
もしそうなら、縄文人のDNAはほとんど残っていないことになります。だって日本人はみんな短足ですから。

>>
>>
>>
#なるほど。漢の頃は江南に寒冷地適応人が住んでいたのですね。

>>
>>
>>
#このへんが、アジア人は南回りという私の漠然たる思い込みの原点です。
古モンゴロイド=ずっと南で暮らしてきた人々
新モンゴロイド=北の暮らしに適応した人々
で、私はこれが誤りであろうと考えるに到ったわけです。
「ちょっと前まで」ということは、今はいわないんですか。

>>
>>
#そうでもないでしょ。
ビルマからベトナムにかけての人々は、明らかに肌の色が薄い。インドネシアは中間くらい。
だから、東南アジア人は非常に最近(せいぜい1万年前)になって北から進出し、南回りの人々を大陸から追い出した可能性が高い、と考えられませんか。



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Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月18日(木)20時35分36秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月18日(木)12時58分38秒 ]

>> 進化が目の前で起こることは期待すべきじゃありません。マンチェスターの蛾や、『フィンチの嘴』など、進化じゃありゃしません(例によって、専門家のプロパガンダです)。

>>
#なるほど。おにりんさんはマンチェスターの蛾が黒くなったり白くなったりすることを進化だと思っているわけですね。だから肌の色も数百年で白くなったり黒くなったりすると信じているのですか。
そういえば以前にも、進化のメカニズムはほとんど解明できていると発言していましたね。
(でもなぜ、そんなにナイーブでいられるんだろう。じゃないな。こんなにナイーブな人がなぜこんなにへそ曲がりなんだろう。)

#そんなに簡単に失った遺伝子を取り戻せるなら、ビタミンcをつくる能力を取り戻した民族がいてもよさそう。一度失った形質を取り戻した例ってありますか、肌の色と、蛾と、フィンチ以外に。

>>
>>
#本を読むのは結構ですが、その後でご自分で考えをめぐらすことをお勧めします。孔子も「まなびておもわざればすなわちくらし(漢字わからん)」と言ってますでしょ。今一番ホットは研究をしている先生方は本を書く時間も惜しいでしょう。本を書く先生は研究より本を書くほうが面白くなってしまった、のかもしれないし。あ、おにりんさんは専門家だから、一般向けの教養書じゃなくて論文を読んでいるんですね。ホットな研究者も論文は書きますね。




111

Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月18日(木)21時02分36秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月18日(木)07時20分44秒 ]

>> 弥生後期になると農耕が進み、特に畿内では海洋性民族の特性が失われてしまった。外部情報に疎くなった。
 北部九州は半島、大陸との交流があります、
 畿内でも、赤坂今井墳丘墓の発見により丹後半島の勢力が北部九州の勢力を媒介とせず、
 独自に日本海ルートで交易していたと考えられるようになっています。

>> >>  レスした通り、初期には鐸と武器の両方が入っています。
>> >>  九州では武器が、近畿では鐸が大型化して祭器になっています。時間差はないでしょう。
>> >>  このことは、単独厚葬墓の有無と同じく社会体制の違いからくる祭形態の違いと言う人もいます。
>> >>  どちらも最後は鏡祭祀になってますけどネ。
>> >>  単独厚葬墓に鏡を大量副葬するのは北部九州が最初ですネ。墳丘を造ること自体がそうか。 
>> 銅鐸に関しては畿内と九州に時間差があった事は間違いないでしょう。
>> 九州は何と言っても半島系小銅鐸がでており、これに装飾を施して鑑賞性を持たせるように変化させた。
>> 畿内では九州の鑑賞性を持った銅鐸を輸入してこれを本来の音を出す器から観賞用、礼拝用だけに変化させた。
>> という経緯だと思います。
 上の方にレスした通り、日本最古の銅鐸は大阪府茨木市東奈良の弥生前期末のものです。
 同じく上述の大陸系馬鐸にも幾何学文様はあります。
 九州の銅鐸は幾何学文様しかなく、装飾を発達させたとは言えないと思います。

>> これは畿内では情報が不足していて半島で銅鐸がカウベルだと言う事が判っていなかった事を表している。
>> まさか人間の食料になる動物の首にぶら下げている物を拝むなんて、知っていたら決してやらないでしょう。
>> 弥生時代の畿内の情報後進性を示しているのではないでしょうか。
 カウベルだとは知らなかったのでしょうが、上記の「日本最古」の銅鐸は国産です。
 畿内の方が先に銅鐸の国産化を行っています。やはり時間差ではなく、祭祀(≒地域)差でしょう。


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R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月18日(木)21時35分44秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月18日(木)21時02分36秒 ]

今晩はお二人がた
>> >> 弥生後期になると農耕が進み、特に畿内では海洋性民族の特性が失われてしまった。外部情報に疎くなった。
>>  北部九州は半島、大陸との交流があります、
>>  畿内でも、赤坂今井墳丘墓の発見により丹後半島の勢力が北部九州の勢力を媒介とせず、
>>  独自に日本海ルートで交易していたと考えられるようになっています。

>> >> >>  レスした通り、初期には鐸と武器の両方が入っています。
>> >> >>  九州では武器が、近畿では鐸が大型化して祭器になっています。時間差はないでしょう。
>> >> >>  このことは、単独厚葬墓の有無と同じく社会体制の違いからくる祭形態の違いと言う人もいます。
>> >> >>  どちらも最後は鏡祭祀になってますけどネ。
>> >> >>  単独厚葬墓に鏡を大量副葬するのは北部九州が最初ですネ。墳丘を造ること自体がそうか。 
>> >> 銅鐸に関しては畿内と九州に時間差があった事は間違いないでしょう。
>> >> 九州は何と言っても半島系小銅鐸がでており、これに装飾を施して鑑賞性を持たせるように変化させた。
>> >> 畿内では九州の鑑賞性を持った銅鐸を輸入してこれを本来の音を出す器から観賞用、礼拝用だけに変化させた。
>> >> という経緯だと思います。
>>  上の方にレスした通り、日本最古の銅鐸は大阪府茨木市東奈良の弥生前期末のものです。
叡>半島ルーツ銅鐸が国産最古の銅鐸が畿内に出ているというのに
>>  同じく上述の大陸系馬鐸にも幾何学文様はあります。
>>  九州の銅鐸は幾何学文様しかなく、装飾を発達させたとは言えないと思います。

>> >> これは畿内では情報が不足していて半島で銅鐸がカウベルだと言う事が判っていなかった事を表している。
>> >> まさか人間の食料になる動物の首にぶら下げている物を拝むなんて、知っていたら決してやらないでしょう。
>> >> 弥生時代の畿内の情報後進性を示しているのではないでしょうか。
叡>どうして畿内情報後進性を示しているなんてこの結論はなんか矛盾していませんか?
いいですか。半島にルーツを持つ銅鐸の最初国産化したのは畿内ですよ!!!!
3者発言レスが積み重なってわかりにくい構造なってうっかり見過ごすとこだった。
>>  カウベルだとは知らなかったのでしょうが、上記の「日本最古」の銅鐸は国産です。
>>  畿内の方が先に銅鐸の国産化を行っています。やはり時間差ではなく、祭祀(≒地域)差でしょう。



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必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月18日(木)23時45分34秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月18日(木)14時25分28秒 ]

次のサイトには,鍛冶屋さんはクリの木炭を使った,火力があるから,
とあります。


炭焼きこぼれ話
http://homepage1.nifty.com/sumi-bito/story.htm


>> 記紀は記載内容が年代を正確に反映していず、前後しているような気がします。


船の場合,三国時代に,いろいろ造られたんで。唐の頃には既に,
大型船の時代に入っています。

鉄の件の場合,日本で鍛冶が始められたのは2世紀,製鉄が始められたのは6世紀と,次のサイトにあります。(必見)


日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

>> そういえばスサノオの体毛から生えた樹木類には船に適した杉だっけ?も生えましたよね。


スサノヲは,「杉と楠とを船材用にしろ」と「ことあげ」したそうです。

>> 木炭と鉄では比重がまったく違いますから、体積比ではかなりの差だと思います。(^^;
>> さらに木炭1kg作るのに10kgの木を必要とするかもしれない。


ただ,木炭の場合,形状としては切り出した原木に対応しているわけです。

>> とにかく石炭が使われるようになる前の製鉄は自然破壊のきわみだったそうな。
>> 「もののけ姫」はこの製鉄による自然破壊がテーマだそうです。


「もののけ姫」の影響で「たたら」のサイトが急増しているようです,,,(^^)

といっても,これは,谷川健一氏などの研究がもとで,古いノリです。

>> たたら製鉄はともかく、鉄の融点は1500℃位?で鉄鉱石から、鉄を取り出すにはたたらよりさらに高温になる設備と燃料が必要になります。
>> 中国は砂鉄集めてたたら製鉄やっていたんでしょうか?


その点も,次のサイトで概要は分かります。鉱石も使ったようです。


日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

このサイトに,
「西暦110年には後漢が全国46ヶ所に鉄官(官営製鉄所)を設置し、
鉄を専売したとの記録が残されている。」
とあります。

>> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。


火力の他に,良質な成分構成を持つものとか,
硫黄等の不純物を含まないもの,とかの企業秘密がありそうなので。

針葉樹の揮発性の成分が良いか悪いか誰か知りませんか?

>> 岩波文庫の推測が正しいかどうかは解りません。
>> 新羅、斯廬は朝鮮語でなんと読むのでしょう。「ラ」とか「ロ」はなかったはずですよね。


あれ?

高句麗コグリョ,百済ペクチェ,新羅シルラ,じゃありませんでしたっけ?

斯廬は知りませんが,シロとかサロみたいです。

岩波版によると,「金のある所」という意味だから,
紀の「韓地の金銀」という特定の仕方と一致します。

>> 中国は中華思想で自ら外へ出向いて交易をするというより、貢物を持ってくるのを待つようなイメージがありますが。(^^;
>> 国としてでなく商人の話でしょうか?

次のサイトでは,
「漢は長江の海の民を支配下に組み込み南海交易を展開」という話です。


長江文明の挑戦−春秋戦国期の波頭
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/shunjiusengok.htm


前回訂正
ヤマタノオロチ→ヤマタノヲロチ
kamnabi→kamnavi


114

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月18日(木)23時49分10秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月18日(木)14時25分28秒 ]

次のサイトには,鍛冶屋さんはクリの木炭を使った,火力があるから,
とあります。


炭焼きこぼれ話
http://homepage1.nifty.com/sumi-bito/story.htm


>> 記紀は記載内容が年代を正確に反映していず、前後しているような気がします。


船の場合,三国時代に,いろいろ造られたんで。唐の頃には既に,
大型船の時代に入っています。

鉄の件の場合,日本で鍛冶が始められたのは2世紀,製鉄が始められたのは6世紀と,次のサイトにあります。(必見)


日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

>> そういえばスサノオの体毛から生えた樹木類には船に適した杉だっけ?も生えましたよね。


スサノヲは,「杉と楠とを船材用にしろ」と「ことあげ」したそうです。

>> 木炭と鉄では比重がまったく違いますから、体積比ではかなりの差だと思います。(^^;
>> さらに木炭1kg作るのに10kgの木を必要とするかもしれない。


ただ,木炭の場合,形状としては切り出した原木に対応しているわけです。

>> とにかく石炭が使われるようになる前の製鉄は自然破壊のきわみだったそうな。
>> 「もののけ姫」はこの製鉄による自然破壊がテーマだそうです。


「もののけ姫」の影響で「たたら」のサイトが急増しているようです,,,(^^)

といっても,これは,谷川健一氏などの研究がもとで,古いノリです。

>> たたら製鉄はともかく、鉄の融点は1500℃位?で鉄鉱石から、鉄を取り出すにはたたらよりさらに高温になる設備と燃料が必要になります。
>> 中国は砂鉄集めてたたら製鉄やっていたんでしょうか?


その点も,次のサイトで概要は分かります。鉱石も使ったようです。


日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

このサイトに,
「西暦110年には後漢が全国46ヶ所に鉄官(官営製鉄所)を設置し、
鉄を専売したとの記録が残されている。」
とあります。

>> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。


火力の他に,良質な成分構成を持つものとか,
硫黄等の不純物を含まないもの,
とかの企業秘密がありそうなので。

針葉樹の揮発性の成分が良いか悪いか誰か知りませんか?

>> 岩波文庫の推測が正しいかどうかは解りません。
>> 新羅、斯廬は朝鮮語でなんと読むのでしょう。「ラ」とか「ロ」はなかったはずですよね。


あれ?

高句麗コグリョ,百済ペクチェ,新羅シルラ,じゃありませんでしたっけ?

斯廬は知りませんが,シロとかサロみたいです。

岩波版によると,「金のある所」という意味だから,
紀の「韓地の金銀」という特定の仕方と一致します。

>> 中国は中華思想で自ら外へ出向いて交易をするというより、貢物を持ってくるのを待つようなイメージがありますが。(^^;
>> 国としてでなく商人の話でしょうか?

次のサイトでは,
「漢は長江の海の民を支配下に組み込み南海交易を展開」という話です。


長江文明の挑戦−春秋戦国期の波頭
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/shunjiusengok.htm


前回訂正
オロチ→ヲロチ
kamnabi→kamnavi


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月18日(木)23時55分22秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月18日(木)14時25分28秒 ]

次のサイトには,鍛冶屋さんはクリの木炭を使った,火力があるから,
とあります。


炭焼きこぼれ話
http://homepage1.nifty.com/sumi-bito/story.htm


>> 記紀は記載内容が年代を正確に反映していず、前後しているような気がします。


船の場合,三国時代に,いろいろ造られたんで。唐の頃には既に,
大型船の時代に入っています。

鉄の件の場合,日本で鍛冶が始められたのは2世紀,製鉄が始められたのは6世紀と,次のサイトにあります。(必見)


日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

>> そういえばスサノオの体毛から生えた樹木類には船に適した杉だっけ?も生えましたよね。


スサノヲは,「杉と楠とを船材用にしろ」と「ことあげ」したそうです。

>> 木炭と鉄では比重がまったく違いますから、体積比ではかなりの差だと思います。(^^;
>> さらに木炭1kg作るのに10kgの木を必要とするかもしれない。


ただ,木炭の場合,形状としては切り出した原木に対応しているわけです。

>> とにかく石炭が使われるようになる前の製鉄は自然破壊のきわみだったそうな。
>> 「もののけ姫」はこの製鉄による自然破壊がテーマだそうです。


「もののけ姫」の影響で「たたら」のサイトが急増しているようです,,,(^^)

といっても,これは,谷川健一氏などの研究がもとです。

>> たたら製鉄はともかく、鉄の融点は1500℃位?で鉄鉱石から、鉄を取り出すにはたたらよりさらに高温になる設備と燃料が必要になります。
>> 中国は砂鉄集めてたたら製鉄やっていたんでしょうか?


その点も,次のサイトで概要は分かります。鉱石も使ったようです。


日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

このサイトに,
「西暦110年には後漢が全国46ヶ所に鉄官(官営製鉄所)を設置し、
鉄を専売したとの記録が残されている。」
とあります。

>> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。


火力の他に,良質な成分構成を持つものとか,
硫黄等の不純物を含まないもの,とかの企業秘密がありそうなので。

針葉樹の揮発性の成分が良いか悪いか誰か知りませんか?

>> 岩波文庫の推測が正しいかどうかは解りません。
>> 新羅、斯廬は朝鮮語でなんと読むのでしょう。「ラ」とか「ロ」はなかったはずですよね。


あれ?

高句麗コグリョ,百済ペクチェ,新羅シルラ,じゃありませんでしたっけ?

斯廬は知りませんが,シロとかサロみたいです。

岩波版によると,「金のある所」という意味だから,
紀の「韓地の金銀」という特定の仕方と一致します。

>> 中国は中華思想で自ら外へ出向いて交易をするというより、貢物を持ってくるのを待つようなイメージがありますが。(^^;
>> 国としてでなく商人の話でしょうか?

次のサイトでは,
「漢は長江の海の民を支配下に組み込み南海交易を展開」という話です。


長江文明の挑戦−春秋戦国期の波頭
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/shunjiusengok.htm


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前回訂正
ヤマタノオロチ→ヤマタノヲロチ
kamnabi→kamnavi


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月19日(金)00時00分06秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月18日(木)23時55分22秒 ]

失礼,間違って3本送ってしまいました。
1つ残して削って下さい,,,(^^;


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Re: R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月19日(金)07時34分29秒]

元の発言 [ R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月18日(木)21時35分44秒 ]

オヤジッチさん 司馬叡さん おはようございます。

>> >>  畿内でも、赤坂今井墳丘墓の発見により丹後半島の勢力が北部九州の勢力を媒介とせず、
>> >>  独自に日本海ルートで交易していたと考えられるようになっています。

私は大陸の物が日本国内で見つかってもそれが交流をしていた証拠とは考えません。
大陸で紛争がある度に多くの大陸人が海に押し出されてきたでしょう。
半島東部から南に向かって出てくれば出雲や丹後半島に流されてきます。
自ら半島に交易を求めて出ていかなくても一方的に流れてくる訳です。
但し、出かけていってとってきた情報でなければ伝えられる情報は正しいとは限りません。
カウベルを神聖な物として崇めたりするのは間違った情報に基づいたからでしょう。

独自の交流も対馬海流を考えるとかなり難しいでしょう。北九州経由なら一海を渡るのも一日くらいで、危険はかなり少ないが、丹後半島ではいきなり大海にでて何日も漂流し、死ぬ確率が5割を超えてしまうのではないか。

>> >> >> >>  レスした通り、初期には鐸と武器の両方が入っています。
>> >> >> >>  九州では武器が、近畿では鐸が大型化して祭器になっています。時間差はないでしょう。

それはそうでしょうが。

>> >> >> >>  このことは、単独厚葬墓の有無と同じく社会体制の違いからくる祭形態の違いと言う人もいます。
>> >> >> >>  どちらも最後は鏡祭祀になってますけどネ。
>> >> >> >>  単独厚葬墓に鏡を大量副葬するのは北部九州が最初ですネ。墳丘を造ること自体がそうか。 
>> >> >> 銅鐸に関しては畿内と九州に時間差があった事は間違いないでしょう。
>> >> >> 九州は何と言っても半島系小銅鐸がでており、これに装飾を施して鑑賞性を持たせるように変化させた。
>> >> >> 畿内では九州の鑑賞性を持った銅鐸を輸入してこれを本来の音を出す器から観賞用、礼拝用だけに変化させた。
>> >> >> という経緯だと思います。
>> >>  上の方にレスした通り、日本最古の銅鐸は大阪府茨木市東奈良の弥生前期末のものです。

たった一個の発見で大阪の方が早いと考えるのは早計ではないですか?
九州から持っていったという可能性のほうが高いのでは?
いっぱい出てきたら大阪の方が早いと認めますが。
朝鮮式小銅鐸が無いのにいきなり国産銅鐸が作られる事も無い事でしょう。

>> 叡>半島ルーツ銅鐸が国産最古の銅鐸が畿内に出ているというのに
>> >>  同じく上述の大陸系馬鐸にも幾何学文様はあります。
>> >>  九州の銅鐸は幾何学文様しかなく、装飾を発達させたとは言えないと思います。

なるほどそうですか。カウベル小銅鐸の方しか見た事がなかったので。
騎馬民族ですかね。馬鐸の文様を考えると馬は大切な動物だったんでしょうね。
北九州は馬鐸と牛鐸をあわせて銅鐸にした。これが畿内に移転したと考えた方が自然では。

>> 叡>どうして畿内情報後進性を示しているなんてこの結論はなんか矛盾していませんか?
>> いいですか。半島にルーツを持つ銅鐸の最初国産化したのは畿内ですよ!!!!
>> 3者発言レスが積み重なってわかりにくい構造なってうっかり見過ごすとこだった。
>> >>  カウベルだとは知らなかったのでしょうが、上記の「日本最古」の銅鐸は国産です。

渥美半島で椰子の実が発見されたら日本でも椰子が茂っていたと考えるようなものでは?

>> >>  畿内の方が先に銅鐸の国産化を行っています。やはり時間差ではなく、祭祀(≒地域)差でしょう。

一個だけで畿内産と考えるのは早計です。



118

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月19日(金)16時03分52秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月18日(木)23時55分22秒 ]

>> 船の場合,三国時代に,いろいろ造られたんで。唐の頃には既に,
>> 大型船の時代に入っています。

このころなら夜はいかりを下ろして表層海流に抗して寝ていられるようになったんでしょうか。
半島を経由せずに中国まで行けるようになった。

>> 鉄の件の場合,日本で鍛冶が始められたのは2世紀,製鉄が始められたのは6世紀と,次のサイトにあります。(必見)
>>
>> 日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
>> http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

なるほど鍛冶では製鉄ほどは木炭を必要としませんから、大きな自然破壊は6世紀になってからですか。

>> >> そういえばスサノオの体毛から生えた樹木類には船に適した杉だっけ?も生えましたよね。

>>
>> スサノヲは,「杉と楠とを船材用にしろ」と「ことあげ」したそうです。


>> >> 木炭と鉄では比重がまったく違いますから、体積比ではかなりの差だと思います。(^^;
>> >> さらに木炭1kg作るのに10kgの木を必要とするかもしれない。

>>
>> ただ,木炭の場合,形状としては切り出した原木に対応しているわけです。

>> 「もののけ姫」の影響で「たたら」のサイトが急増しているようです,,,(^^)
>> といっても,これは,谷川健一氏などの研究がもとです。
>> >> たたら製鉄はともかく、鉄の融点は1500℃位?で鉄鉱石から、鉄を取り出すにはたたらよりさらに高温になる設備と燃料が必要になります。
>> >> 中国は砂鉄集めてたたら製鉄やっていたんでしょうか?

>>
>> その点も,次のサイトで概要は分かります。鉱石も使ったようです。

>> 日本古来の製鉄法「たたら」を巡って/室蘭工業大学名誉教授 片山 博
>> http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html

>> このサイトに,
>> 「西暦110年には後漢が全国46ヶ所に鉄官(官営製鉄所)を設置し、
>> 鉄を専売したとの記録が残されている。」
>> とあります。

やはり。
砂鉄集めでは効率が悪すぎますよね。
と言う事はたたらよりもっと高温の炉が必要だったわけですね。

>> >> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。
>> 火力の他に,良質な成分構成を持つものとか,
>> 硫黄等の不純物を含まないもの,とかの企業秘密がありそうなので。
>> 針葉樹の揮発性の成分が良いか悪いか誰か知りませんか?

ヒノキチオールは燃やす時はどうなるのだろ?

>> >> 岩波文庫の推測が正しいかどうかは解りません。
>> >> 新羅、斯廬は朝鮮語でなんと読むのでしょう。「ラ」とか「ロ」はなかったはずですよね。

>> あれ?
>> 高句麗コグリョ,百済ペクチェ,新羅シルラ,じゃありませんでしたっけ?

新しい羅国という意味じゃなかったんですね。勘違いです。
シルラに漢字を嵌めただけか。いや逆かな?中国読みならシンラ。
どうも半島の国名は中国でつけた名前か、自分で名乗った名前なのかわからない。

>> 斯廬は知りませんが,シロとかサロみたいです。
>> 岩波版によると,「金のある所」という意味だから,
>> 紀の「韓地の金銀」という特定の仕方と一致します。

>> >> 中国は中華思想で自ら外へ出向いて交易をするというより、貢物を持ってくるのを待つようなイメージがありますが。(^^;
>> >> 国としてでなく商人の話でしょうか?

>> 次のサイトでは,
>> 「漢は長江の海の民を支配下に組み込み南海交易を展開」という話です。

>> 長江文明の挑戦−春秋戦国期の波頭
>> http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/shunjiusengok.htm

>漢帝国は周辺の諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄として野蛮視する漢民族本位の国家であって・・・
呉・越・楚の三国が漢にとって南蛮だった事など勉強になります。

なるほど船のために木を伐採してと言うのもありうる事ですね。鉄のため・・には敵わないだろうけど。

「当時においては商業活動は比較的に自由であった。斉の管仲は自由な商業政策で国を富強にし、越に仕えた范蠡は商業で越を「春秋五覇」の一国に伸し上げた・・」

漢による商業の管理はうまくいったのでしょうか?
商業の発展は楽市楽座でしょうに。



119

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月19日(金)17時50分07秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月18日(木)19時19分42秒 ]

>> >> >> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。
>> >> >> 年輪のはっきりした大きい木は密度が一定しませんから。
>> >> >> 油分が多いせいもあるかな?
>> >> >> キンコン音がするようないい炭にならない。

>> >> >> >> この辺は,詳しい人に訊いたほうが早そう,,,(^◇^)

>> >> 梅干しと日本刀という本をご存知ですか?
>> >> この本で読んだんですけど確かに良い炭じゃないようなことが書いてあった気がします。
>> >> ただ、細かい粉の炭に近くなり
>> >> 炭素の粉に近くなるため結果的に火力が強くなると書いてあったと思います。

>> なるほど、粉になりやすいと言うのはたたら向きと言えるかも知れませんね。
>> 火力と言うのは燃えやすいと言う事とは相反する所があって(例えばガソリンのオクタン価のように)、粉になると燃焼温度が下がるのではないでしょうか。

其処の所が違うらしいです。
他の炭では1000℃程度
松で1200℃くらいだそうです。

>> >> 中国のジャンク的な船は、作られている形跡はないし、
>> >> やはり遣唐使の船を、思わせますね。
>> >> でも不思議だ。あんな船どんな過程の流れで作られるようになったんだろう?

>> スサノオが三世紀、あるいはそれ以前に来日したかというと、スサノオのもたらした木が船を作ったとしても三世紀の話ではなかったような気がしますね。
>> 遣唐使の頃ですか。

まとめらた時期の他に木材が貿易品だったなんてことも考えられますね。


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Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月5日(金)21時07分39秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 10月5日(金)21時00分05秒 ]

>> #これは本当ですか?(私には知識がない)
>> もしそうなら、縄文人のDNAはほとんど残っていないことになります。だって日本人はみんな短足ですから。

短足は縄文以来の堅果類を始めとした極端な植物食の結果と言う話もある。
縄文人は世界的に見ても、早くから植物食中心とそれによる定住をはじめたらしい。


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Re: R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月19日(金)20時47分36秒]

元の発言 [ R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月18日(木)21時35分44秒 ]

司馬叡さん、 今晩は。
>> 叡>どうして畿内情報後進性を示しているなんてこの結論はなんか矛盾していませんか?
>> いいですか。半島にルーツを持つ銅鐸の最初国産化したのは畿内ですよ!!!!
 これは私に対するエールですネ。ありがとうございます。

>> >>  カウベルだとは知らなかったのでしょうが、上記の「日本最古」の銅鐸は国産です。
>> >>  畿内の方が先に銅鐸の国産化を行っています。やはり時間差ではなく、祭祀(≒地域)差でしょう。
 ということで、時間差でも後進性でもなく地域差であって、多元的な勢力圏が在ったということです。
 昔の多元史観と違うのは、「多元勢力圏=対立」ではなく「多元文化圏=並立」ということです。
 従って、
>> >> いや昔、銅鐸文化圏と銅矛文化圏に別れているとか、文化圏の対立があったかのような話があったと思いますが、出雲だけが
両方並存出来た理由は何だろうと言う事です。
 と言うレスはナンセンスです。


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Re: R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月19日(金)20時56分18秒]

元の発言 [ Re: R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月19日(金)07時34分29秒 ]

牛頭天王さん こんばんは。

>> >> 叡>どうして畿内情報後進性を示しているなんてこの結論はなんか矛盾していませんか?
>> >> いいですか。半島にルーツを持つ銅鐸の最初国産化したのは畿内ですよ!!!!
>> >> 3者発言レスが積み重なってわかりにくい構造なってうっかり見過ごすとこだった。
>> >> >>  カウベルだとは知らなかったのでしょうが、上記の「日本最古」の銅鐸は国産です。
>> 渥美半島で椰子の実が発見されたら日本でも椰子が茂っていたと考えるようなものでは?
>> >> >>  畿内の方が先に銅鐸の国産化を行っています。やはり時間差ではなく、祭祀(≒地域)差でしょう。
>> 一個だけで畿内産と考えるのは早計です。
#論点が複数の勢力(文化)圏が並存していたかどうかにうつっているようですし、このスレッドは深くなりすぎているのでこの辺で水入りにします。


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月19日(金)21時00分51秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月19日(金)16時03分52秒 ]

>> このころなら夜はいかりを下ろして表層海流に抗して寝ていられるようになったんでしょうか。
>> 半島を経由せずに中国まで行けるようになった。


魏・呉・蜀なんかは,船で戦闘を行っているとか,
長江の民が海原に乗り出すとかの,
船舶文化・海上交易が発達する経緯についてです。

>> なるほど鍛冶では製鉄ほどは木炭を必要としませんから、大きな自然破壊は6世紀になってからですか。


次のサイトによると,司馬遼太郎の説を引いて,
御説のようなことを押さえているものの,

萬晩報-お江戸のデスク日記 (m00000322)
http://www.melma.com/mag/22/m00000322/a00000144.html

大津の田上山の現代に残る荒廃については,
「奈良時代に東大寺を造営した際に巨木を多く切り出した場所」だからで,

「山陰地方の島根県に残る『たたら鉄』」については,
「豊富な森林資源が背景に あって初めて成り立ってきた」もので,
「三つの山を順番に伐採しては植林するという歴史的営みの中で
続いてきたともいえる」
とあります。(「」内引用)

ウラを返せば,日本の「たたら鉄」については,
植林管理されてきたことになり,
荒廃原因ではないことになるでしょう。


# ま,これだけでは分からんので,調査続行。

金属関連の公害を研究しているのが谷川健一氏などの専門家で,
記紀・風土記の伝承で言うと,ヤマタノヲロチ,温羅,日本武尊,
備中のミツチ退治(仁徳紀)なんかに,
金属関連の公害として表現されているのであろう,と。

>> やはり。
>> 砂鉄集めでは効率が悪すぎますよね。
>> と言う事はたたらよりもっと高温の炉が必要だったわけですね。


炉,ふいご,燃料,なんかですね。漢が独占して機密を保持したので,
かえって記録が残らないという含みがあるようなないような・・・?

言い出しっぺの司馬説では,
「製鉄用の松の伐採による中国・朝鮮禿げ山説」だそうですが,
スサノヲの件では「松」は出てきませんので。

スサノヲの件で言えることは,
船材が主であり,宮材,棺材,食用らしい樹木,です。

ウラを返せば,まだ製鉄用の植林を考えていない・・・
ということで,縄文遺風〜弥生ふうかもしれない・・・?

あるいは,半島の荒廃に対応している伝承なら,
半島でも,船材が主であったのではないか,とかなんとか。

# そんで,ヤマタノヲロチに生えているという,
# 松っぽい樹木に注目が集まる。

>> ヒノキチオールは燃やす時はどうなるのだろ?


さあ?

>> 新しい羅国という意味じゃなかったんですね。勘違いです。
>> シルラに漢字を嵌めただけか。いや逆かな?中国読みならシンラ。
>> どうも半島の国名は中国でつけた名前か、自分で名乗った名前なのかわからない。
>> >> 斯廬は知りませんが,シロとかサロみたいです。

新羅の前身が斯廬であり,前57年成立,という伝承は実は,
広義の騎馬民族説の論拠として珍重されているはずです。


>> >漢帝国は周辺の諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄として野蛮視する漢民族本位の国家であって・・・
>> 呉・越・楚の三国が漢にとって南蛮だった事など勉強になります。

>> なるほど船のために木を伐採してと言うのもありうる事ですね。鉄のため・・には敵わないだろうけど。


漢の鉄官が鉄利権を独占する過程で,
森林を伐り倒したことは当然あるでしょう。

規模については,現在,調べてます。その過程で,
たまたま大船団説を言う人がいた,という意味です。
> 佐藤宏之先生(考古学者)


>> 「当時においては商業活動は比較的に自由であった。斉の管仲は自由な商業政策で国を富強にし、越に仕えた范蠡は商業で越を「春秋五覇」の一国に伸し上げた・・」

>> 漢による商業の管理はうまくいったのでしょうか?
>> 商業の発展は楽市楽座でしょうに。


その辺は,おっしゃる通り,漢の中央集権化や混乱の一因,
という教科書的知識しかありませんが,
船材の需要はあった,ということでしょうね。


--
(ちなみに,調理用にブームである和歌山名産の備長炭というのは,
ウバメガシが原木で,元禄創製です。)


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月19日(金)21時04分36秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月15日(月)23時44分38秒 ]

>> また,イザナミ神話を読み解くと


訂正です。

イザナミ→イザナキ


124

Re: 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月19日(金)21時10分06秒]

元の発言 [ 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月18日(木)23時45分34秒 ]

有用な情報をありがとうございます。

>> >> 杉や松の木炭は質があまりよくない?かもしれません。
 と言うより水分が多くて通常のやり方では良質は炭が出来ないそうです。
 日田の風倒木の処理のために特別な窯(ロータリーキルン式炭化炉)を造り、
 農業用、畜産用、バーク材混合用、園芸用、水質浄化用、調湿材用などとして出荷されています。


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Re: 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月19日(金)23時46分24秒]

元の発言 [ Re: 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月19日(金)21時10分06秒 ]

>>  と言うより水分が多くて通常のやり方では良質は炭が出来ないそうです。
>>  日田の風倒木の処理のために特別な窯(ロータリーキルン式炭化炉)を造り、
>>  農業用、畜産用、バーク材混合用、園芸用、水質浄化用、調湿材用などとして出荷されています。

なるほど,そうでしたか。

バーク堆肥は便利ですね。

思いつきですが,木炭にせずに利用すると言えば薪でしょう。

NHKの「プロジェクトX」で放映した北海道の襟裳岬の場合,
確か,住民が岬の針葉樹を薪として伐採し尽くして荒廃したような。
これを住民の努力で再生。

この例から考えると,
半島方面の寒冷地の場合,
やはり住民等が,
薪として伐採し尽くした例もあったのではなかろうか,
とかなんとかの振り出し。

やはりNHKの中国もののドキュメンタリーで,
中国奥地の禿げ山を紹介したことがありましたが,
原因については忘れてしまった,,,(^◇^)

# 人為含みの病害だったかな?


126

Re: R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月20日(土)09時55分32秒]

元の発言 [ Re: R銅鐸に関して畿内は半島との交流をしていた先進地域 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月19日(金)20時56分18秒 ]


>> #論点が複数の勢力(文化)圏が並存していたかどうかにうつっているようですし、このスレッドは深くなりすぎているのでこの辺で水入りにします。

了解しました。


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月21日(日)07時35分28秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月19日(金)21時00分51秒 ]

>> 大津の田上山の現代に残る荒廃については,
>> 「奈良時代に東大寺を造営した際に巨木を多く切り出した場所」だからで,
>> 「山陰地方の島根県に残る『たたら鉄』」については,
>> 「豊富な森林資源が背景に あって初めて成り立ってきた」もので,
>> 「三つの山を順番に伐採しては植林するという歴史的営みの中で
>> 続いてきたともいえる」
>> とあります。(「」内引用)

>> ウラを返せば,日本の「たたら鉄」については,
>> 植林管理されてきたことになり,
>> 荒廃原因ではないことになるでしょう。
>> # ま,これだけでは分からんので,調査続行。

>> 金属関連の公害を研究しているのが谷川健一氏などの専門家で,
>> 記紀・風土記の伝承で言うと,ヤマタノヲロチ,温羅,日本武尊,
>> 備中のミツチ退治(仁徳紀)なんかに,
>> 金属関連の公害として表現されているのであろう,と。

>> 炉,ふいご,燃料,なんかですね。漢が独占して機密を保持したので,
>> かえって記録が残らないという含みがあるようなないような・・・?

>> 言い出しっぺの司馬説では,
>> 「製鉄用の松の伐採による中国・朝鮮禿げ山説」だそうですが,
>> スサノヲの件では「松」は出てきませんので。

>> スサノヲの件で言えることは,
>> 船材が主であり,宮材,棺材,食用らしい樹木,です。

>> ウラを返せば,まだ製鉄用の植林を考えていない・・・
>> ということで,縄文遺風〜弥生ふうかもしれない・・・?

>> あるいは,半島の荒廃に対応している伝承なら,
>> 半島でも,船材が主であったのではないか,とかなんとか。

>> # そんで,ヤマタノヲロチに生えているという,
>> # 松っぽい樹木に注目が集まる。

>> >> なるほど船のために木を伐採してと言うのもありうる事ですね。鉄のため・・には敵わないだろうけど。

>> 漢の鉄官が鉄利権を独占する過程で,
>> 森林を伐り倒したことは当然あるでしょう。

>> 規模については,現在,調べてます。その過程で,
>> たまたま大船団説を言う人がいた,という意味です。
>> > 佐藤宏之先生(考古学者)

>> 船材の需要はあった,ということでしょうね。

船を作る為の木は大木ですから細い木まで切って山を裸にする事は考え難いような気がします。

雑木でも生えていれば何百年にも渡って再生不能になるような自然破壊にならないのではないか。
製鉄のための炭のためなら雑木の方がかえって使いやすいですから。

>> (ちなみに,調理用にブームである和歌山名産の備長炭というのは,
>> ウバメガシが原木で,元禄創製です。)

私も製鉄が日本に山林の荒廃をもたらしたと主張している訳ではなく、スサノヲの来日に関して植林に関係した伝承があることから、6世紀なら製鉄、あるいはもっと後に都の造営によって木が不足する事態が起きた事に対応し、2、3世紀の事ではなかったか、と言う事です。

つまり主張したいのは神話時代といわれている事柄も意外に新しい時代を反映しているのではないかという事です。


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Re: またまた、専門家の保証つき

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月5日(金)21時17分06秒]

元の発言 [ またまた、専門家の保証つき ] お名前 [ EK ] 日付 [ 10月2日(火)20時39分55秒 ]

相手が専門家であるかどうかはそれほど問題ではない。
問題は相手の持っている知識と、それを表す言動だと思います。

要するに自分で納得できることが一番なのですが、できるだけ幅広い知識ベースに基づいて考えるべきと思います。
現代社会においては、専門化があらゆる分野において著しく、やはりある程度専門家の意見には耳を傾けざるを得ないでしょう。

恥ずべきは無知に尽きると思います。
まあ私のようにほかに生活のある身では限界がありますが。
少なくとも知らないことを開き直らないようには考えております。

それにしても、日本の歴史学や考古学には情報をオープンにする気が有るのでしょうか。
理論物理の世界ではこんなサイトがあり、最先端の研究をほとんどリアルタイムに捉えられます。
これくらいやってもいいのでは?


130

Title高知or静岡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月22日(月)10時29分28秒]

現在の所、玉が取れ真珠が取れ近くから丹が取れると言うと次の場所になるだけれど
有名な糸魚川は、豪雪地帯だから除くとして同じような理由で1から3は除くと
候補は、三つ

1.鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町角谷
2.兵庫県養父郡大屋(おおや)町加保
3.岡山県阿哲郡大佐(おおさ)町大佐山
3.長崎県長崎市三重町
4.静岡県引佐郡引佐(いなさ)町
5.高知県高知市円行寺(えんぎょうじ)

翡翠の産地は次のアドレスから見ました。
http://www.city.itoigawa.niigata.jp/fmm/detail-menu2/jade102-Japan/jade-itoigawa.html

玉が、翡翠でないならまた別の見方も有るけど。
兎に角、大和はない。
真珠については、別の考察調査が必要だけど産物から素直に考えると現在この三個所
の候補しかないことになる。
長崎はちと問題あるから、高知or静岡?


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月22日(月)18時08分40秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月21日(日)07時35分28秒 ]

「スサノヲの来日」といっても決まったわけではないので,
何とも分かりません。

半島で森林の荒廃が進んだことを承けて,
日本(倭)の手で半島の植林を試みる動きがあったのではないか,
という印象のほうが若干,強いです。

スサノヲの件から大雑把に思いつくことは,

船材→弥生以降,天孫降臨前段,ニギハヤヒ降臨,
    神武東遷,崇神紀造船発令
宮材→弥生時代,出雲大社,神武東遷,纏向遺跡,
棺材→弥生(特に畿内)〜四隅突出型墳丘墓〜古墳前期(〜全期)
食用→縄文時代からある
船型埴輪→古墳中期(準構造船そのものは弥生以降)
新羅→斯廬として前57年以降

船型埴輪については,
古墳期に船型埴輪として知られる準構造船を,
先行する時代にスサノヲが造って乗ってきた伝承かもしれない,
とも考えられるので,この点も何とも分かりません。

埴の船に乗ってきた,という伝承は,
天皇家の皇位継承にまつわる再生の秘犠を思わせる点もあるので,
スサノヲが帰還に際して,
象徴的に死んで再生する儀礼を通過したことの暗示かもしれません。
(ホントは半島で死んだのかもしれずイタケルが遺志を継いだのかも)


どうも,弥生中・後期〜崇神紀・垂仁紀に解くべきミステリーが・・・。

推定,弥生中期〜後期のあたりが,
スサノヲ〜イタケルの時代であった可能性が・・・,

ま,いわゆる銅鐸文化圏の,出雲〜畿内が主な舞台と言えば,
当たり前か,,,(^^;

欠史八代の間に記の出雲神話を当てはめる説が,
あることはあるそうです。

>> スサノヲの来日に関して植林に関係した伝承があることから、
>> 6世紀なら製鉄、あるいはもっと後に都の造営によって木が
>> 不足する事態が起きた事に対応し、2、3世紀の事ではなかったか、
>> と言う事です。


「2、3世紀の」とあるのは,「7,8世紀の」あたりの打ちミスだと思いますが。

斉明紀2年前後の記事からは,
スサノヲ祭祀に森林再生の呪術的効能が期待されたもの,と考えられます。

スサノヲやイタケルが王として支配していた地域が半島にあったもの,
とも考えられます。

この場合,欽明紀の国家造立神勧請の記事と併せ,
扶余>百済>新羅>倭の線で,
スサノヲと蘇我氏の関連を見出そうとする仮説を見かけましたが,

逆に,本来的には,
天孫もしくはスサノヲ〜大国主命を戴く倭人が,
半島で宗教活動をしていたもの,とも考えられます。
その祭祀の場に,スサノヲの祠くらい作ったかもしれない。

蘇我氏にとって,スサノヲ〜大国主命こそが建国の祖であった,
騎馬系文化の導入者の系譜,という線はなきにしもあらず,か。



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Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月22日(月)18時40分19秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月21日(日)23時19分18秒 ]

>>
>>
>>
#おにりんさんは分子生物学の専門家のようですが、進化に関しては正しい理解ができていないと私は判断しています。基本的に、遺伝学は子が親に「似る」現象の研究、進化学は子が親に「似ない」現象の研究です。極論ですが、進化学はDNAを論じるべきではない、とあえて私は主張します。ダーウィンの考えとメンデル遺伝学を統合したいわゆる「総合説」はなんとも奇妙なものでした。
そういえば、埴原先生も進化学の専門家なら決して使わないであろう用語を使っていますね。代表的なのが「進化の袋小路」。人類学の先生方には、もう少し遺伝学と進化学に興味を持っていただきたいと思いました。

>>
#私には意味がわかりかねます。おにりんさんの主張は、我々のDNAには、単細胞生物の時代からホモサピエンスにいたるまでの進化の過程で獲得したあらゆる遺伝子が失われずに保存されていると聞こえますが。「個体発生は系統発生を繰り返す」は魅力的な表現ですが、文字通りの事実ではありません。
遺伝子が失われないというのなら、ヒトゲノムの解読も終わっているようですから、例えばビタミンCを合成する遺伝子がどこにあって、なぜ我々の体の中では機能しないのか、教えてください。私は、そんな遺伝子はとっくに壊れて、失われてしまったと考えます。断片がジャンクのどこかに埋もれているかもしれません。


#ところで、おにりんさんのおかげで私は「北回り理論」についてかなり理解を深めました。後日まとめて報告します。

#おにりんさんは詳しそうなので一つ教えてください(皆さんごめんなさい。進化論ほども、古代史に関係ありません)。
質問:減数分裂の際、対をなす父親・母親由来の染色体は何箇所かで交差してモザイク状に配偶子に配分されるそうですが、交差する可能性のある場所や交差する確率は解明されているのでしょうか。
私は、一人の人間の生殖細胞から生じうる精子or卵子のバリエーションがどのくらいになるのか、知りたいのですが。




133

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月23日(火)07時12分15秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月22日(月)18時08分40秒 ]

>> 「スサノヲの来日」といっても決まったわけではないので,
>> 何とも分かりません。

>> 半島で森林の荒廃が進んだことを承けて,
>> 日本(倭)の手で半島の植林を試みる動きがあったのではないか,
>> という印象のほうが若干,強いです。

倭といっても可能性のあるのは畿内ではなく九州でしょうね。

>> スサノヲの件から大雑把に思いつくことは,

>> 船材→弥生以降,天孫降臨前段,ニギハヤヒ降臨,
>>     神武東遷,崇神紀造船発令

>> 宮材→弥生時代,出雲大社,神武東遷,纏向遺跡,

法隆寺の古材再利用説(年輪年代)などが木材不足の証拠?
吉野、熊野の大森林が控えた畿内で3,4世紀に植林など考えられないでしょう。

>> 棺材→弥生(特に畿内)〜四隅突出型墳丘墓〜古墳前期(〜全期)

箸墓を作るにあたって、石を大量につかったと言う記述は有るものの、木をつかった記録はありませんね。
棺材と言っても使用する木は多寡が知れている。

>> 食用→縄文時代からある
>> 船型埴輪→古墳中期(準構造船そのものは弥生以降)
>> 新羅→斯廬として前57年以降

>> 船型埴輪については,
>> 古墳期に船型埴輪として知られる準構造船を,
>> 先行する時代にスサノヲが造って乗ってきた伝承かもしれない,
>> とも考えられるので,この点も何とも分かりません。
>> 埴の船に乗ってきた,という伝承は,
>> 天皇家の皇位継承にまつわる再生の秘犠を思わせる点もあるので,
>> スサノヲが帰還に際して,
>> 象徴的に死んで再生する儀礼を通過したことの暗示かもしれません。
>> (ホントは半島で死んだのかもしれずイタケルが遺志を継いだのかも)
>>
>> どうも,弥生中・後期〜崇神紀・垂仁紀に解くべきミステリーが・・・。

記紀が何らかの歴史的事実を含んでいるにしても、時代、年代が交錯している可能性が多々あり、記紀をベースに歴史観を組み立てるのは危険かと思います。

>> 推定,弥生中期〜後期のあたりが,
>> スサノヲ〜イタケルの時代であった可能性が・・・,

>> ま,いわゆる銅鐸文化圏の,出雲〜畿内が主な舞台と言えば,
>> 当たり前か,,,(^^;

>> 欠史八代の間に記の出雲神話を当てはめる説が,
>> あることはあるそうです。

>> >> スサノヲの来日に関して植林に関係した伝承があることから、
>> >> 6世紀なら製鉄、あるいはもっと後に都の造営によって木が
>> >> 不足する事態が起きた事に対応し、2、3世紀の事ではなかったか、
>> >> と言う事です。

>>
>> 「2、3世紀の」とあるのは,「7,8世紀の」あたりの打ちミスだと思いますが。

その通りです。フォロー有難う御座います。

>> 斉明紀2年前後の記事からは,
>> スサノヲ祭祀に森林再生の呪術的効能が期待されたもの,と考えられます。

>> スサノヲやイタケルが王として支配していた地域が半島にあったもの,
>> とも考えられます。

>> この場合,欽明紀の国家造立神勧請の記事と併せ,
>> 扶余>百済>新羅>倭の線で,
>> スサノヲと蘇我氏の関連を見出そうとする仮説を見かけましたが,

>> 逆に,本来的には,
>> 天孫もしくはスサノヲ〜大国主命を戴く倭人が,
>> 半島で宗教活動をしていたもの,とも考えられます。
>> その祭祀の場に,スサノヲの祠くらい作ったかもしれない。

>> 蘇我氏にとって,スサノヲ〜大国主命こそが建国の祖であった,
>> 騎馬系文化の導入者の系譜,という線はなきにしもあらず,か。

まあ、私の説もちょっと一服さんの説も空想の域を出ませんね。


135

Re: Title高知or静岡

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [10月23日(火)21時11分08秒]

元の発言 [ Title高知or静岡 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 10月22日(月)10時29分28秒 ]

>> 現在の所、玉が取れ真珠が取れ近くから丹が取れると言うと次の場所になるだけれど
>> 有名な糸魚川は、豪雪地帯だから除くとして同じような理由で1から3は除くと
>> 候補は、三つ

>> 1.鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町角谷
>> 2.兵庫県養父郡大屋(おおや)町加保
>> 3.岡山県阿哲郡大佐(おおさ)町大佐山
>> 3.長崎県長崎市三重町
>> 4.静岡県引佐郡引佐(いなさ)町
>> 5.高知県高知市円行寺(えんぎょうじ)

>> 翡翠の産地は次のアドレスから見ました。
>> http://www.city.itoigawa.niigata.jp/fmm/detail-menu2/jade102-Japan/jade-itoigawa.html

>> 玉が、翡翠でないならまた別の見方も有るけど。
>> 兎に角、大和はない。
>> 真珠については、別の考察調査が必要だけど産物から素直に考えると現在この三個所
>> の候補しかないことになる。
>> 長崎はちと問題あるから、高知or静岡?

#当時、流通はなかったということでしょうか?




136

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月23日(火)23時42分10秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月22日(月)18時08分40秒 ]

スサノオに関して面白い説を見つけました。

福島雅彦という人の説です。(無断転載禁止と書いてありましたが無視しています。)

“쇠-산”(soe-san)=鉄産⇒鉄産王⇒素盞嗚尊である。

これなんか私は非常に納得できるんですが。

この人は
アマテラスに関しても隋書に書いてある「阿毎多利思北孤阿輩雞弥」の事だと主張しています。

となるとやはり7世紀?


137

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [10月24日(水)06時46分04秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月23日(火)23時42分10秒 ]

>> “쇠-산”(soe-san)=鉄産⇒鉄産王⇒素盞嗚尊である。

(soe)=鉄:韓国語
(san)=産:中国語
語順:非中国語
日中韓の言葉でチャンポンにすれば、たいていの言葉は自由に意味がこじつけられるでしょ。


139

Re: Title高知or静岡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月24日(水)09時00分33秒]

元の発言 [ Re: Title高知or静岡 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 10月23日(火)21時11分08秒 ]

>> >> 現在の所、玉が取れ真珠が取れ近くから丹が取れると言うと次の場所になるだけれど
>> >> 有名な糸魚川は、豪雪地帯だから除くとして同じような理由で1から3は除くと
>> >> 候補は、三つ

>> >> 1.鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町角谷
>> >> 2.兵庫県養父郡大屋(おおや)町加保
>> >> 3.岡山県阿哲郡大佐(おおさ)町大佐山
>> >> 3.長崎県長崎市三重町
>> >> 4.静岡県引佐郡引佐(いなさ)町
>> >> 5.高知県高知市円行寺(えんぎょうじ)

>> >> 翡翠の産地は次のアドレスから見ました。
>> >> http://www.city.itoigawa.niigata.jp/fmm/detail-menu2/jade102-Japan/jade-itoigawa.html

>> >> 玉が、翡翠でないならまた別の見方も有るけど。
>> >> 兎に角、大和はない。
>> >> 真珠については、別の考察調査が必要だけど産物から素直に考えると現在この三個所
>> >> の候補しかないことになる。
>> >> 長崎はちと問題あるから、高知or静岡?

>> #当時、流通はなかったということでしょうか?

勿論有ったでしょうけど、漢文だめな私でも、邪馬台国の
産物として書かれているように思えます。

丹については山に丹ありですよね。
使者は実際に丹の出る場所を見たのでは?

真珠に関しては、単水産の真珠が無いわけでは有りませんし、
当時、大和盆地の中に湖が有ったらしいと聞いているため
断言できないためです。

何と言うか、他に一つの国の領域内からでる産物で絞り込んでみたんです。



140

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月24日(水)11時59分44秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 10月24日(水)06時46分04秒 ]

>> >> “쇠-산”(soe-san)=鉄産⇒鉄産王⇒素盞嗚尊である。

>> (soe)=鉄:韓国語
>> (san)=産:中国語
>> 語順:非中国語
>> 日中韓の言葉でチャンポンにすれば、たいていの言葉は自由に意味がこじつけられるでしょ。

中国人じゃなく朝鮮人が名前を付けたのならチャンポンになっても不思議はないと思いますが?

木花之佐久夜毘売命なんてなんで「このはなさくやひめ」なの?「木花之」って普通「こはし」でしょ。
これ日中チャンポンじゃないですか。

まあ、たまたまスサノオと鉄の関係を探っていたらこういう話が出てきた、というだけで証拠になるとは思ってませんけどありうるかなと。

もう一つ、八坂神社の境内内にある蛭子社ですがスサノオの別名日子を朝鮮読みで「イルコ」(iruko)に発音しない「h」を付けると「hiruko」になります。
朝鮮との関係はここにも見られます。



141

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月24日(水)17時18分44秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月23日(火)23時42分10秒 ]

>> “?-?”(soe-san)=鉄産⇒鉄産王⇒素盞嗚尊である。

>> これなんか私は非常に納得できるんですが。


「そ」ではなくて「す」が本来でしょう。

もともと「朱砂」を連想させるので,金属関連ふうではありますが,

「すさぶ」「すさまじ」という古語とスサノヲの性格が一致するので,
性格類型からの「やくざ者」「気違い」みたいな感じだと思いますが。
「タケ・ハヤ・スサノヲ」と形容されるので,強い性格との印象があるので,
「ヲロチ退治は,この人しかいない」という担ぎ上げか,,,(^^?

ただし,「すさ」という地名か職能があるとすれば,
その地名か職能からくる名前か,
とも考えられます。


ヤマタノヲロチが製鉄部族だとしたら,
この製鉄部族が,山陰地方で,
松の伐採をしていた可能性も捨てきれないので,
その後にスサノヲ〜イタケルが植林した可能性は,
なきにしもあらず。

>> この人は
>> アマテラスに関しても隋書に書いてある「阿毎多利思北孤阿輩?弥」の事だと主張しています。


北→比とされる

弥ミ,君のミ→ミ甲類
神のミ→ミ乙類

などから,妥当ではないでしょう。

「天照す」については,
「天国(あまつくに)に照臨(てらしのぞ)みたまふ」という文飾もあります。
(岩波版紀神代上)

>> となるとやはり7世紀?


はるか以前でしょう。

ただし,神名が変遷した,という点はあるでしょうが,
これも秘伝的要素を加味しないと何とも分からないです。


神代〜垂仁紀までは,青銅器と鉄器とが混在する弥生〜古墳前期を一応,
想定するんじゃないんですか。


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Re: 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って(寄り道)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月24日(水)20時33分48秒]

元の発言 [ Re: 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月19日(金)23時46分24秒 ]

>> やはりNHKの中国もののドキュメンタリーで,
>> 中国奥地の禿げ山を紹介したことがありましたが,
>> 原因については忘れてしまった,,,(^◇^)
 黄土地帯は元々は森林地帯で二割に減ってしまい、今の砂漠状態になったとのこと。
 原因は都市の発生とそのための燃料その他を目的にした伐採と言ってました。
 そして福岡(今年は岡山の方まで)黄砂が降ってくる。(^_^;)


143

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [10月24日(水)21時44分23秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月24日(水)11時59分44秒 ]

>> 木花之佐久夜毘売命なんてなんで「このはなさくやひめ」なの?「木花之」って普通「こはし」でしょ。
>> これ日中チャンポンじゃないですか。

「こはし」?普通???なんのこと?
「このはな」はぜんぶ日本語。


>> 日子を朝鮮読みで「イルコ」(iruko)

コは日本語だし、ただヒルとイルが似てるだけでしょ。
たぶんもともと同源の言葉だから似てて当然なんじゃない?



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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月24日(水)22時03分02秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月24日(水)17時18分44秒 ]

>> >> “?-?”(soe-san)=鉄産⇒鉄産王⇒素盞嗚尊である。
>> >> これなんか私は非常に納得できるんですが。

>> 「そ」ではなくて「す」が本来でしょう。

「ソエサンオウ」がスサノオに変化したとしてもありうるのでは。

>> もともと「朱砂」を連想させるので,金属関連ふうではありますが,

>> 「すさぶ」「すさまじ」という古語とスサノヲの性格が一致するので,
>> 性格類型からの「やくざ者」「気違い」みたいな感じだと思いますが。
>> 「タケ・ハヤ・スサノヲ」と形容されるので,強い性格との印象があるので,
>> 「ヲロチ退治は,この人しかいない」という担ぎ上げか,,,(^^?

>> ただし,「すさ」という地名か職能があるとすれば,
>> その地名か職能からくる名前か,
>> とも考えられます。

>>
>> ヤマタノヲロチが製鉄部族だとしたら,
>> この製鉄部族が,山陰地方で,
>> 松の伐採をしていた可能性も捨てきれないので,
>> その後にスサノヲ〜イタケルが植林した可能性は,
>> なきにしもあらず。

だからこれ6,7世紀の話ですね。

>> >> この人は
>> >> アマテラスに関しても隋書に書いてある「阿毎多利思北孤阿輩雞弥」の事だと主張しています。

>>
>> 北→比とされる
>> 弥ミ,君のミ→ミ甲類
>> 神のミ→ミ乙類
>> などから,妥当ではないでしょう。

>> 「天照す」については,
>> 「天国(あまつくに)に照臨(てらしのぞ)みたまふ」という文飾もあります。
>> (岩波版紀神代上)

あまたりしほこおほきみ→アマテラスヒコオオキミ→天照彦大神→天照大神となる。
アマテラスってほんとに女だったんでしょうか?
そういえば随書の阿毎多利思北孤も推古天皇の時だから女でなければならないのに妻がいた。
両方に性別の疑問がある。

>> >> となるとやはり7世紀?
>> はるか以前でしょう。

>> ただし,神名が変遷した,という点はあるでしょうが,
>> これも秘伝的要素を加味しないと何とも分からないです。

「あまたりし おほきみ」と言う名前が代々引き継がれていたかも?

それから神功皇后の息長帶日賣命「オキナガタラシヒメ」のタラシも気になりますね。
「多利思」「タラシ」

天皇の名に息長帶がついているのが舒明天皇。
推古天皇の時代に近いし阿毎多利思北孤はやっぱり田村王子?
皇極天皇もタリシがついている。
神功皇后は皇極天皇がモデルで創作された?
名前で遊んでると妄想が次々と湧いてくる。
話がまとまらなくなってきたので少し時間を取って整理してみます。

>>
>> 神代〜垂仁紀までは,青銅器と鉄器とが混在する弥生〜古墳前期を一応,
>> 想定するんじゃないんですか。

といっても弥生〜古墳前期は鉄の生産してないでしょう?


145

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月24日(水)22時40分31秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 10月24日(水)21時44分23秒 ]

>> 「こはし」?普通???なんのこと?
>> 「このはな」はぜんぶ日本語。

訓読みって8世紀に完成していたんでしたっけ?私の勘違いかな?

>> >> 日子を朝鮮読みで「イルコ」(iruko)

>> コは日本語だし、ただヒルとイルが似てるだけでしょ。
>> たぶんもともと同源の言葉だから似てて当然なんじゃない?

「日」は「ヒル」と読んだ?同源?朝鮮語と日本語の同源を認めるのですか?
「日子」は昔の日本では全て「ヒルコ」と読んだんですか?
日本語では「ひ(の)こ」になると思ってましたけど。
「ヒルコ」は朝鮮と日本のチャンポンではないでしょうか?
朝鮮語は「N」と「R」が逆転しますから。


146

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月24日(水)22時43分22秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月23日(火)07時12分15秒 ]


>> 倭といっても可能性のあるのは畿内ではなく九州でしょうね。


スサノヲは九州(筑紫>日向)生まれらしいので,
もともと九州が地場らしく,宗像三女神も九州にあります。

渡韓後,日本に帰ってきて,出雲に向かったわけですが,
天照派に帰順しているはずです。

この出雲は,一応,葦原中国という範疇です。

この辺りの関心。

>> 法隆寺の古材再利用説(年輪年代)などが木材不足の証拠?
>> 吉野、熊野の大森林が控えた畿内で3,4世紀に植林など考えられないでしょう。


大森林といっても,心柱にするような巨木はそうはないらしい,
という説もあります。

また,「熊野の大森林」と一口に言っても,
スサノヲ・イタケルらが,
最終的に熊野に入境した段階というわけだし,
そこは当時は辺境のようであり,
そこの山の利用や営林活動の実態は知りません。

紀国が木で注目されるのは,崇神以降だったかな。

神武東遷時は,まだ,細々とやっていたらしい。ただし,
「ゐひか」「石押分の子」などの金属関連とも噂される,
妖しい人物が出てきます。


>> 箸墓を作るにあたって、石を大量につかったと言う記述は有るものの、木をつかった記録はありませんね。
>> 棺材と言っても使用する木は多寡が知れている。


そういう量的な観点もあろうが,スサノヲの話は,
植林という営みに関する古代人の一般論としての蘊蓄でしょう。


里に近い山が荒れるので青山にする,
里に近い所に需要も希少価値もある贅沢な植林をする,
ということだったのではないか。

>> 記紀が何らかの歴史的事実を含んでいるにしても、時代、年代が交錯している可能性が多々あり、記紀をベースに歴史観を組み立てるのは危険かと思います。


稲荷山鉄剣銘の解読とか,太安萬侶の墓の発見とか,その他,
発見があるたびに,
記紀を押さえておくほうがよい,と感じますが。

個人的には,稲荷山鉄剣銘の解読以来,
もっぱら記紀です。


147

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [10月24日(水)22時52分20秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月24日(水)22時40分31秒 ]

>> 訓読みって8世紀に完成していたんでしたっけ?私の勘違いかな?

勘違いですね。
木「こ」だって花「はな」だって日本語でしょ?


>> 「日」は「ヒル」と読んだ?

だって大日女はオオヒルメじゃないですか。


>> 同源?朝鮮語と日本語の同源を認めるのですか?

ぼくはそう思いますけど?他系統の語彙も多いでしょうけどね。


>> 日本語では「ひ(の)こ」になると思ってましたけど。

(の)は格助詞でしょ?
チャンポンはないですよ。



148

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月25日(木)19時42分16秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 10月24日(水)22時52分20秒 ]

>> だって大日女はオオヒルメじゃないですか。

>> >> 同源?朝鮮語と日本語の同源を認めるのですか?

>> ぼくはそう思いますけど?他系統の語彙も多いでしょうけどね。

天皇に繋がる直系天照の呼び名が朝鮮語と同源となると又大和政権高句麗論の傍証になりそう。(^^;


149

Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月25日(木)20時02分59秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月23日(火)12時00分32秒 ]

1.
>> ・・・極論ですが、進化学はDNAを論じるべきではない、とあえて私は主張します。ダーウィンの考えとメンデル遺伝学を統合したいわゆる「総合説」はなんとも奇妙なものでした。

>>
>>
#補足します。メンデル遺伝学という限られた知識の範囲内で進化を論じようとした総合説が提出し得た唯一のメカニズムがランダムな突然変異でした。しかし、突然変異と地質学的な時間だけで進化が起こるという考えには納得しない研究者も多く、そういう人々はこの考えを「有望な怪物」という言葉で揶揄しました。
現在の分子生物学が解明した知識レベルは当時の生物学とは比べ物になりませんが、それでもまだまだわかっていることは少ない。その知識レベルにとらわれた進化の議論は、現代版の「有望な怪物」にならざるを得ないでしょう。
ま、今でも「有望な怪物」説を信奉している人もたくさんいるかもしれない。

2.
>> そういえば、埴原先生も進化学の専門家なら決して使わないであろう用語を使っていますね。代表的なのが「進化の袋小路」。・・・

>>
#あなたが、進化学にも十分な理解があると主張なさるなら、ここにももう少しマシなレスをつけてね。

3.
>>
#それは、あなたです。だから、

>>
>>
とか、

>>
>>
などという発言が出てくる。確かに、「遺伝子」という言葉はたんぱく質を指定する単位という使われ方もします(特に分子生物学方面で。ヒトの遺伝子は何万個という表現など)が、同じようなたんぱく質を使って、同じ程度の数の「遺伝子」が働いても昆虫ができたり人間ができたりする、そちらのほうが遺伝子の機能としてさらに重要でしょうが。それとも、あなたは、遺伝子という言葉をたんぱく質という素材の製造指示書に割り当ててしてしまったので、その素材を使って体を作ったり、毎日を生きていくための作業指示書には別の用語を用意しているのですか。

>>
>>
>>
#どんなたんぱく質を、どの場所で、いつ、どんな前後関係で作るべきかの作業リストはプログラムと呼ぶに極めてふさわしい。何が不満なんです?

>>
>>
>>
#なるほど、これがその「用語」ですか?
でもねえ、「遺伝子」ということばは、100年かそれ以上前からある由緒ある言葉でしょうが。分子生物学の都合で勝手に再定義するのはあまりに傲慢。第一あなたも、「知恵の遺伝子」などと漠然とした使い方をするじゃありませんか。

まあいいや。じゃ、「遺伝子」とその「発現系列」とやらを含めて、DNAの働き方がに変化が起こることが進化の源泉であることは賛成してもらった、と。

>>
>>
>>
#ひぇ〜〜〜。そもそも、「遺伝子は決して失われない」とあなたがバカな主張を引っ込めないからこの無意味な議論が続いているのですよ。だから私は手っ取り早く「失われる」例を提出しようとしているだけです。
ビタミンCを作る能力が失われたことは、進化とは直接関係ないのですよなんていう講義はしないでね。

>>
>>
>>
#微妙かどうかは、具体例で考えたいですね。例えば、将来の大学では「シマウマをベースに、キリンのように首の長い動物のDNAをコーディングせよ」なんて問題が出たりして。これ、結構大変そう。いちばんエレガントな答案でも、とても微妙じゃすまないでしょう。

>>
>>
#はい、疲れたからもうやめます。

4.
>>
>>
>>
#質問をご理解いただいていないようです。私は減数分裂の過程で「普通に」起こっている現象についてお聞きしています。多分、詳しいことは解明されていないんでしょう。




150

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月25日(木)21時07分09秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月24日(水)22時03分02秒 ]


>> 「ソエサンオウ」がスサノオに変化したとしてもありうるのでは。


その辺は,おにりんさんの解説に期待してます,,,(^^;

# 可能性は低いと思うけど・・・。


「ヲ」は小首長的な意で頻出しますから,もともと「を」でしょう。

>> だからこれ6,7世紀の話ですね。


失礼しました,製鉄と書いてしまったので,誤解を与えたようです。
鍛冶を含みます。

それで,原則として弥生後期以降。


# もっと前かもしれないけど。


この辺は,室蘭工大のサイトにもあったように,
伝播の時代は遡るかもしれない,
というのが実際に最近の成果として騒がれていますしね。

>> あまたりしほこおほきみ→アマテラスヒコオオキミ→天照彦大神→天照大神となる。
>> アマテラスってほんとに女だったんでしょうか?


ま,一理はあるかも。

「アメ・タリシヒコ・オホキミ」に代わる女性神格用語として,
「アマ・テラス・オホ・ミ・カミ」が創出されたのか・・・とかの視点かな?


文化人類学的に見ると,
「天照大神は女性の太陽神」との説が妥当だそうです。(岩波版注)

天国照臨大女神の意義から抽出された,
言霊による後世の神名かもしれないし,

先行する名は,学術書では,岩波版の注その他,
「オホヒルメノムチ」が初めだろう,という説が,
なんだか定説みたいになっています。

ですから,「女性の太陽神」観が古くからあったのは確かなこと。

>> 「あまたりし おほきみ」と言う名前が代々引き継がれていたかも?
>> 推古天皇の時代に近いし阿毎多利思北孤はやっぱり田村王子?

「アメ・タリシヒコ・オホキミ」というのは,
古くからある皇統の一つの派閥のようなものか,
欽明天皇の時に確立した崇仏派の王位か,
中央集権化の過程で創案された言霊による格式か,
とかなんとか。

「アマ・テラス・オホ・ミ・カミ」とは,
一対の言葉と見る線は妥当かも。

並立なのか序列があるのか,
平和的なのか,対立しているのか,
政権をめぐる事情があるのか・・・?


>> といっても弥生〜古墳前期は鉄の生産してないでしょう?


ここは「鉄器」のままで可です。


151

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月25日(木)21時37分46秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月25日(木)19時42分16秒 ]


>> 天皇に繋がる直系天照の呼び名が朝鮮語と同源となると又大和政権高句麗論の傍証になりそう。(^^;


岩波版注では,「ヒルコ」の「ヒル」と,
「ヒルメ」の「ヒル」は別語源らしいです。

「ヒルコ」の「ヒル」は沖縄に残る言葉に通じ,
「萎えた」状態の意味だそうです。
「ヒルメ」の「ヒ」は「日」で,
「ル」は助詞ということのようです。

一方,土橋寛説によると,
「ヒルメ」の「ヒル」は,「ヒ」を動詞化した言葉で,
明快に「光り輝く」意です。
この説によると,「ヒル」には別の意味もあり,
植物や動物が「ヒラヒラと揺れ動く」意味だそうです。
一例として「蛭」・・・これは「ヒルコ」(蛭児)に,
一脈通じますが。


152

Re: 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って(寄り道)

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月25日(木)21時40分24秒]

元の発言 [ Re: 必見サイト:日本古来の製鉄法「たたら」を巡って(寄り道) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月24日(水)20時33分48秒 ]

>> >> やはりNHKの中国もののドキュメンタリーで,
>> >> 中国奥地の禿げ山を紹介したことがありましたが,
>> >> 原因については忘れてしまった,,,(^◇^)
>>  黄土地帯は元々は森林地帯で二割に減ってしまい、今の砂漠状態になったとのこと。
>>  原因は都市の発生とそのための燃料その他を目的にした伐採と言ってました。
>>  そして福岡(今年は岡山の方まで)黄砂が降ってくる。(^_^;)

同じくNHKの中国もののドキュメンタリーで北京の運河をやってました。
北京というと乾いて誇りっぽいイメージですが運河が張り巡らされているそうです。
そしてこの運河を作ったのが金だそうです。
草原の騎馬民族が運河を作った理由は物資の運搬のためで、有名な盧溝橋も金が作ったそうです。
何か不思議ですね。

金はまた北京の宮殿の中にゲルを置いて住んでいたそうです。
金は中国人になる事を拒否し、中国に自分達の生活を持ち込んだのでした。
誰か騎馬民族は国を支配するとその国の俗になるとか言っていなかったっけ。




153

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月26日(金)11時35分16秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月25日(木)21時37分46秒 ]

>> >> 天皇に繋がる直系天照の呼び名が朝鮮語と同源となると又大和政権高句麗論の傍証になりそう。(^^;

>> 岩波版注では,「ヒルコ」の「ヒル」と,
>> 「ヒルメ」の「ヒル」は別語源らしいです。
>> 「ヒルコ」の「ヒル」は沖縄に残る言葉に通じ,
>> 「萎えた」状態の意味だそうです。
>> 「ヒルメ」の「ヒ」は「日」で,
>> 「ル」は助詞ということのようです。

近しい神の名前で片や動詞、片や名詞+助詞と言うのも解せない。
「ル」が助詞なら「の」と言う意味でしょうね。

>> 一方,土橋寛説によると,
>> 「ヒルメ」の「ヒル」は,「ヒ」を動詞化した言葉で,
>> 明快に「光り輝く」意です。

名詞に「る」をつけて動詞にした例というとほかに何かありますか?
東海に「まぶしい」を「ひずるしい」とか「ひどろしい」とかいう方言がありますが無関係でしょうね。
「日出ずるらしい」からの変化と思われますから。

>> この説によると,「ヒル」には別の意味もあり,
>> 植物や動物が「ヒラヒラと揺れ動く」意味だそうです。
>> 一例として「蛭」・・・これは「ヒルコ」(蛭児)に,
>> 一脈通じますが。

話はちょと変わりますが「蛭子」と書いて「エビス」と読みますが「戎、夷」とも書かれます。
これらは新支配者からみて原住被支配者の神をあらわしているのではないでしょうか。
これらの神は現世においてご利益をもたらしてくれる庶民の神で、天照は収奪する支配者の神のようなイメージがあります。



155

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月26日(金)17時35分07秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月26日(金)11時35分16秒 ]


高句麗とは後になって交流が始まりますが,
それ以前,神代からしばらく,
古代の日本における高句麗像というものは,
高天原とは正反対の,
怨敵の巣窟みたいな存在であったのではないか,
という印象から,調査中です。

>> 近しい神の名前で片や動詞、片や名詞+助詞と言うのも解せない。


どちらかと言えば土橋説が正しいと思います。

土橋説の場合,「ヒ」といっても「霊力」が想定されています。大野説で言うと,日本古語の「霊Fi」はタミル語の「精霊pee」と対応しているそうです。

個人的には,さらに研究中でして確定はしていません。

>> 「ル」が助詞なら「の」と言う意味でしょうね。


はい,そうです。 たぶん,成立しないでしょう。

>> 名詞に「る」をつけて動詞にした例というとほかに何かありますか?


さあ? 

土橋説の要点は,「ヒ」が,
「ヒル」「ヒヒル」「ヒレ」「ヒラ」「ヒロメク」
などの語に展開する,という辺りです。

>> 東海に「まぶしい」を「ひずるしい」とか「ひどろしい」とかいう方言がありますが無関係でしょうね。
>> 「日出ずるらしい」からの変化と思われますから。


調べてみますが,印象としては,他に語源がありそう。


>> 話はちょと変わりますが「蛭子」と書いて「エビス」と読みますが「戎、夷」とも書かれます。
>> これらは新支配者からみて原住被支配者の神をあらわしているのではないでしょうか。


エビスは一説に,ヒルコの神と言われています。

イザナキ・イザナミの子であるから,
もともと天照大神とは一応,一族ですが,
国生みの初めに葦船で流され,大八島の外です。

七福神の構成を見ると,インドや中国の神様など,
異国情緒が強いですから,
異郷性を受容する曖昧化装置として,ヒルコの神を置いた,
とも考えられます。

流された先を常世と見て,常世の神仙に付会するという,
そういうヒルコ観があったかもしれず,
調べています。

とは言うものの,七福神に仕立てた頃には,
既に通俗化していたものと思われます。

寺院経営上,御利益派に祀ってもらおうとかの,
そういう仏教側の着想から出てきた縁起担ぎでしょう。


# 「海老で鯛を釣る」という駄洒落を連想させる。

>> これらの神は現世においてご利益をもたらしてくれる庶民の神で、天照は収奪する支配者の神のようなイメージがあります。


仏教僧の着想(思いつき)ですよ,あんなの。

一方,天照大神は,古代人の理想の神格ですから,
侮っても無意味です。

日神と同じく,天照る存在として月神がありますが,
こちらには,峻厳にして少し恐い側面もあります。


156

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月26日(金)23時59分40秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月26日(金)17時35分07秒 ]

>> >> 東海に「まぶしい」を「ひずるしい」とか「ひどろしい」とかいう方言がありますが無関係でしょうね。
>> >> 「日出ずるらしい」からの変化と思われますから。

>>
>> 調べてみますが,印象としては,他に語源がありそう。

次のサイトに「日照り」語源説がありました。


幸田町ホームページ/西三河の方言/方言「ひずるい」
http://www.town.kota.aichi.jp/hougen/hougen9510.htm

「照(て)る」の上代東国方言は「とる」らしいですから,
「ひとるい」→「ひどるい」→「ひづるい」→「ひずるい」
だったのではないかとかなんとか。


158

Titleスサノオ?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月29日(月)20時55分28秒]

◎妻木晩田遺跡(10月26日)−鳥取県−
 大山町、淀江町にまたがる弥生時代の大規模集落跡・妻木晩田遺跡の発掘調査を進めている鳥取県教委は、
 洞ノ原地区西丘陵集落跡の環濠から鍛冶遺構が出土したことを明らかにした。
 見つかった鍛冶遺構は、縦0.85m、横0.65m、深さ0.15mあり、多量の鍛造剥片が散在しており、焼土の粒子も確認されたという。
 近くの住居跡などとの関係から、弥生時代後期終末から古墳時代前期初頭(2〜3世紀ごろ)のものとみられている。
 同県教委では、これまで同遺跡から出土している約300点の鉄器や鉄くずが現地生産されていたことを示すとして、
 鉄器生産の実像に迫るものと今後の調査に期待を寄せている。
やはり出雲は鉄と強いつながりが、スサノオは妻木晩田にいたのか。§^。^§


159

Title講演会:邪馬台国と「卑弥呼の銅鏡百枚」

投稿者[ 藤盛紀明 ] 発言日時 [10月30日(火)09時02分00秒]

「東アジアの古代文化を考える会」11月講演会をご案内します。
奮ってご参加ください。
邪馬台国と「卑弥呼の銅鏡百枚」
―初期ヤマト政権成立探求シリーズー
日時11月3日(土)午後1時半―5時
(午後1時開場)
会場 豊島区生活産業プラザ 8会ホール
  (JR池袋駅東口徒歩5分、三越裏)
講師 奥野正男会長(宮崎公立大学教授)
資料代会員一七〇〇円 非会員二〇〇〇円
   学生一五〇〇円(要学生証提示) 
会場の地図は会のHPの会報3ページをご参照ください。
http://www.ha-kodai.com/index2.htm


160

Re: Titleスサノオ?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月30日(火)15時41分04秒]

元の発言 [ Titleスサノオ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月29日(月)20時55分28秒 ]

>> やはり出雲は鉄と強いつながりが、スサノオは妻木晩田にいたのか。§^。^§

スサノオと製鉄のつながりって、立証できるもんでしょうか。
可能性があるとか、文学的(民俗学的?)な想像、連想のレベルなんでは?

あと鬼もそうですが。
妻木晩田にほど近く、孝霊天皇時代に設定された鬼の伝説がありますよね。
いちおう孝霊山の名の由来になっていますね。
古い鬼は山陰と吉備にいて、いづれも孝霊天皇がらみで退治されている。

三輪山の信仰が妻木晩田の孝霊山から来たなんていう珍説ぶってやろうかしら。


161

Title毎日新聞記事

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月30日(火)15時52分34秒]

再利用の極致か。

*******************************************

<濡れ縁>板材が弥生時代の木棺と判明 大阪・四条畷

 民家の「濡(ぬ)れ縁」の板材は、弥生時代の木棺だった――。大阪府四条畷市雁屋南町の主婦、木邨(きむら)みちゑさん(62)宅で濡れ縁として使っていた板材(長さ180センチ、幅52センチ、厚さ9センチ)が、約2000年前の弥生時代中期の木棺の側材だったことが29日、分かった。奈良文化財研究所の年輪年代法で判明。みちゑさんは「自宅改築時に捨てずに残した亡き夫のお手柄です。来月の七回忌に報告します」とびっくりしている。

 板材は1955年ごろ、みちゑさんの義父(故人)が所有していた畑に、公立病院が建てられた際、掘り起こされた。頑丈そうな板だったため、夫が自宅の「濡れ縁」の板に利用したが、この時、発見のいきさつに興味を示した知人の櫻井敬夫・前四条畷市教育長に一部を渡していた。

 同市内で昨年11月、奈文研埋蔵文化財センターの光谷拓実・古環境研究室長の講座が行われた際、櫻井さんがこの板材を思い出し「ひょっとしたら」と鑑定を依頼。年輪年代法で調査した結果、当時の畑を含む雁屋遺跡の発掘調査で、86年に見つかっていた弥生中期の木棺の年輪データと一致した。

 板材は濡れ縁として約30年間も“活躍”。木邨さんの夫が89年に自宅を改築したが、父の形見との思いもあって捨てずに残し、夫が亡くなった後、みちゑさんもそのまま捨てなかった。

 光谷室長は「今の生活の中で(弥生中期の)板材がこんなに利用できたのは驚きだ。これほど保存状態の良い木棺に出合うことはめったにない。研究資料として超一級の遺物で、木邨さんに感謝する」と話している。

 木棺は、来月1日から12月2日まで同市塚脇町の市立歴史民俗資料館(072・878・4558)で開かれる特別展「がんばる弥生人」で公開される。 【近藤大介】

 ◆年輪年代法 樹木の種類や気象条件、病害虫の発生などによって年ごとに変動する年輪の特性から年輪の「物差し」を作製。それに基づき、出土した木材などの伐採された年代を特定する方法で、科学的に実年代を特定できる。(毎日新聞)
*******************************************

保存のよい木棺も有るんだ。



162

Re: Title毎日新聞記事

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月30日(火)17時32分56秒]

元の発言 [ Title毎日新聞記事 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 10月30日(火)15時52分34秒 ]

>> 再利用の極致か。

>> *******************************************

>> <濡れ縁>板材が弥生時代の木棺と判明 大阪・四条畷

>>  民家の「濡(ぬ)れ縁」の板材は、弥生時代の木棺だった――。大阪府四条畷市雁屋南町の主婦、木邨(きむら)みちゑさん(62)宅で濡れ縁として使っていた板材(長さ180センチ、幅52センチ、厚さ9センチ)が、約2000年前の弥生時代中期の木棺の側材だったことが29日、分かった。奈良文化財研究所の年輪年代法で判明。みちゑさんは「自宅改築時に捨てずに残した亡き夫のお手柄です。来月の七回忌に報告します」とびっくりしている。

>>  板材は1955年ごろ、みちゑさんの義父(故人)が所有していた畑に、公立病院が建てられた際、掘り起こされた。頑丈そうな板だったため、夫が自宅の「濡れ縁」の板に利用したが、この時、発見のいきさつに興味を示した知人の櫻井敬夫・前四条畷市教育長に一部を渡していた。

>>  同市内で昨年11月、奈文研埋蔵文化財センターの光谷拓実・古環境研究室長の講座が行われた際、櫻井さんがこの板材を思い出し「ひょっとしたら」と鑑定を依頼。年輪年代法で調査した結果、当時の畑を含む雁屋遺跡の発掘調査で、86年に見つかっていた弥生中期の木棺の年輪データと一致した。

>>  板材は濡れ縁として約30年間も“活躍”。木邨さんの夫が89年に自宅を改築したが、父の形見との思いもあって捨てずに残し、夫が亡くなった後、みちゑさんもそのまま捨てなかった。

>>  光谷室長は「今の生活の中で(弥生中期の)板材がこんなに利用できたのは驚きだ。これほど保存状態の良い木棺に出合うことはめったにない。研究資料として超一級の遺物で、木邨さんに感謝する」と話している。

>>  木棺は、来月1日から12月2日まで同市塚脇町の市立歴史民俗資料館(072・878・4558)で開かれる特別展「がんばる弥生人」で公開される。 【近藤大介】

>>  ◆年輪年代法 樹木の種類や気象条件、病害虫の発生などによって年ごとに変動する年輪の特性から年輪の「物差し」を作製。それに基づき、出土した木材などの伐採された年代を特定する方法で、科学的に実年代を特定できる。(毎日新聞)
>> *******************************************

>> 保存のよい木棺も有るんだ。

そんな、馬鹿ななんて言っても出ている物はしょうがないですね。
でも、これふただけのこったってことなのかな?
状況の概略で想像するには、骨も残って無いのに!


163

Re: Titleスサノオ?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月30日(火)21時35分17秒]

元の発言 [ Re: Titleスサノオ? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 10月30日(火)15時41分04秒 ]

>> >> やはり出雲は鉄と強いつながりが、スサノオは妻木晩田にいたのか。§^。^§
>> スサノオと製鉄のつながりって、立証できるもんでしょうか。
>> 可能性があるとか、文学的(民俗学的?)な想像、連想のレベルなんでは?
 まあ、そういうレベルでしょう。
 製鉄集団とか冶金に関係する氏族を象徴するとかでしょう。

>> 三輪山の信仰が妻木晩田の孝霊山から来たなんていう珍説ぶってやろうかしら。
 面白そうじゃないですか。(^。^)


164

Re: Titleスサノオ?

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月30日(火)23時13分39秒]

元の発言 [ Re: Titleスサノオ? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月30日(火)21時35分17秒 ]

>> >> >> やはり出雲は鉄と強いつながりが、スサノオは妻木晩田にいたのか。§^。^§
>> >> スサノオと製鉄のつながりって、立証できるもんでしょうか。
>> >> 可能性があるとか、文学的(民俗学的?)な想像、連想のレベルなんでは?
>>  まあ、そういうレベルでしょう。
>>  製鉄集団とか冶金に関係する氏族を象徴するとかでしょう。

その鍛冶集団は,物部氏か,
という辺りの関心でしょう。


167

Re: これもぬれ縁?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月31日(水)00時07分33秒]

元の発言 [ これもぬれ縁? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月30日(火)23時38分41秒 ]

>> 再利用の極致か。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そういえば、以前何かの美術書で、
古代の木製仏像の材質にやけに虫食いの多い不良材と言うか
そんなものを無理やり寄木造りにしているものが多々あるようなことを読みました。
よほど何か、信仰的なものがあるのだろうとかかれていたんですが、
意外と、御説はあたっているかも?




168

Re: Titleスサノオ?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月31日(水)19時09分55秒]

元の発言 [ Re: Titleスサノオ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月30日(火)23時43分30秒 ]

>> 古い鬼は山陰と吉備にいて、いづれも孝霊天皇がらみで退治されている。

>>
>>
麦→妻(^^)

>>
山岳民族と言えば高句麗も・・・江波さんが北朝鮮で調査した時に四隅突出墓を見つけたとか。
漢が楽浪郡を作った時にでも逃げてきた北朝鮮地域の集団がいたかも、なんて想像してしまいます。
環濠なんて2mもあってかなり厳重。
高句麗人は平地じゃ落ち着けない?

>>
妻木晩田は荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡よりも前と考えられているそうですが出雲に影響を及ぼすことなく消えた?

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
集落としては1000戸以下、群をぬく鉄器の量、一世紀、四隅突出墓、後世に影響を残さず消えた遺跡。

やはり知識や技術を持って渡来してきてもインフラなしには継承出来なかったのでしょうか?




169

本日23:00定期メンテナンスを行います。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [10月31日(水)22時33分18秒]

よろしく


17

Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月6日(土)07時50分31秒]

元の発言 [ Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月6日(土)01時54分40秒 ]

>>
『呉書』にいう。劉備は張松・法正に会ったとき手厚く恩情を込めて接し、心からの歓待を行った。このとき張松は蜀地の広さ・兵器・倉庫・人馬の数・要害や道のりを説明し、地面に山河の地図を書いた。これにより蜀の内情を知ることができた。

こんな風に書いてあったりします。
もちろんどんな地図かは分かるすべはありませんが
まあ、そういう話です。





170

Re: Titleスサノオ?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月31日(水)22時48分53秒]

元の発言 [ Re: Titleスサノオ? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月31日(水)19時09分55秒 ]


>> 妻木晩田は荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡よりも前と考えられているそうですが出雲に影響を及ぼすことなく消えた?

>> 集落としては1000戸以下、群をぬく鉄器の量、一世紀、四隅突出墓、後世に影響を残さず消えた遺跡。

>> やはり知識や技術を持って渡来してきてもインフラなしには継承出来なかったのでしょうか?

あのう、いったいどこの遺跡の話をしてますか?


18

Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか

投稿者[ 池ちゃん ] 発言日時 [10月6日(土)10時08分43秒]

元の発言 [ Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月6日(土)07時50分31秒 ]

>> >> で、どのくらい正確な地図だったんですか?

>> 『呉書』にいう。劉備は張松・法正に会ったとき手厚く恩情を込めて接し、心からの歓待を行った。このとき張松は蜀地の広さ・兵器・倉庫・人馬の数・要害や道のりを説明し、地面に山河の地図を書いた。これにより蜀の内情を知ることができた。

>> こんな風に書いてあったりします。
>> もちろんどんな地図かは分かるすべはありませんが
>> まあ、そういう話です。

#お久しぶりです。
海と陸地では話が変わってくるんじゃないでしょうか?
陸地のように山やら川やらを基準には出来ませんし、
海の場合、基準にできるのは太陽と星ぐらいですね。
あとは船乗りのカンが頼りになるわけです。


19

Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ)

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月6日(土)12時29分16秒]

元の発言 [ Re: またまた、専門家の保証つき ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月3日(水)15時34分27秒 ]

>>
>>
>>
大学の研究室によっては政府の都合や金を出してくれる企業の都合にあわせて情報を隠したり、結論を出したりする所がある。
政府や企業から金を貰っていない環境保護団体の方が大体正しい結論を出す事が多い。
って言うのはどうですか?



2

またまた、専門家の保証つき

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月2日(火)20時39分55秒]

狂牛病の原因物質「プリオン」は133度以上に加熱し、3気圧で20分以上、加圧処理すれば分解する。骨粉はさらに高温で処理されるため安全だ。猫の発病例は汚染されたペットフードが原因とみられ、日本で売っている商品は大丈夫だ。
(山内一也・東京大学名誉教授/ウィルス学、朝日新聞 2001/9/29)

「専門家」が邪馬台国は大和だとおっしゃると、私はますますこれで九州説は安泰だな〜と思うとですよ(と、なぜか怪しげな福岡弁もどきになる)。


20

Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ)

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [10月6日(土)13時57分00秒]

元の発言 [ Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ) ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月6日(土)12時29分16秒 ]

>> 政府や企業から金を貰っていない環境保護団体の方が大体正しい結論を出す事が多い。
>> って言うのはどうですか?

捏造で功名あげるNGOもあったりして。


21

Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月6日(土)13時58分16秒]

元の発言 [ Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 10月6日(土)10時08分43秒 ]

こんにちわ、池ちゃんさん。

船乗りのカン(経験)は馬鹿に出来ないと思いますよ。
僕のような調理師のはしくれでも、目で寸法や分量は
測りますから。
必ずしも計量カップとかスプーンを使わないですから。
ある程度経験でわかると思います。

転載ですが、以下のように漢代の地理学もかなり進歩していたようです。
また、ご存じとは思いますが、九章算術についても、転載しておきました。

■佐藤善幸 Yoshiyuki Satohさんのホームページ
より転載

> 漢代の地理学
> 領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。
  天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者と
  されています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図で
  すが、中国では西洋科学がもたらされるまで、大地が平らであると考えられていた
  ため、投影法が考案されることはありませんでした。晋の司空(土木省長官)であ
  った裴秀(はいしゅう:224〜271)は、地理学と地図作製の手引書を著わしています。
  これには地図作製の要点として「分率・準望・道里・高下・方邪・迂直」の重要性が
  述べられています。
>
> 分率 … 縮尺の比率を定めること
> 準望 … 方位を正すこと
> 道里 … 距離を正すこと
> 高下 … 坂道では水平の距離を求めること
> 方邪 … 交差の角度を正すこと
> 迂直 … 曲線区間では直線距離と方位を求めること
----------------------------------------------------------------------------------
■History of Mathematics
by David Eugene Smith
より転載

>九章算術
>
> 中国の数学の著作の中で、古さの点で次に位置するのは、九章算術である。
これは、数学に関する中国の古典の中で最大のものであり、何世紀にもわたって
東洋では最も高い評価を受けてきた。著者と書かれた年代について、私たちは知
らない。焚書(BC213年)後、まもなく、張蒼という名の数学者が現れ、古代の著作
を集め、九章算術を編纂したように思える。それを証明する確かな証拠はないけれ
ども、この著作は、元来、すでに述べた BC1105年に死んだ周公の命によって準備
されたという伝承がある。また、BC27世紀の黄帝の統治の時代にまで遡るとずっと
主張されてもいる。伝承による証言は、成立をとても早い時期においているので、
少なくとも大部分は私たちが書いている時代、BC1000年以前に存在した可能性があ
るように思える。
>
>九章算術の内容
>
> この書物は、題名にあるとおり、九つの章からなっている。題名と章の並びは
版によっていくらか異なっているが、次のは紀元2・3世紀の校訂版のもので、
大体正しいものであろう。
>
>  1.方田(耕地の面積を求める。)測量に関するもので、三角形、台形、
円(1/2*c・1/2*dと1/4*cd)の面積を求める正しい公式と円の概算、
3/4*ddと 1/12*ccが書かれている。ここではπは 3である。
>  2.粟米(穀物の量を算出する。)割合と比に関すること。
>  3.衰分(分け前を計算する。)パートナーシップと三数法(the Rule of
the Three)に関すること。
>  4.少広(長さを求める。)図形の辺の長さを求める。平方根、立方根も含む。
>  5.商功(体積を求める。)体積に関すること。
>  6.均輸(混合法(alligation))運動の問題(急使、ウサギと犬)と混合法に
関するもの。
>  7.盈不足(過不足算)仮定法(the Rule of False Position)とここで用いら
れる二つの概念についての「過剰」と「不足」の二つの用語について。
>  8.方程(方程式)行列式の考えをいくらか含む連立一次方程式について。
>  9.句股(直角三角形)ピタゴラスの三角形に関すること。



22

Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月6日(土)16時51分15秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月6日(土)01時51分17秒 ]

>> #だから、その広がる途中の、多分かなり最初の頃に、高緯度地方に住んでいたのでしょう。
>>
>>
#”論理的に”考えるなら、もっとずっと高緯度でなければ肌の色を失うメリットはありません。

>>
#なんだか信用の置けない話です。ふんふん、と聞き流しておきましょう。

>>
>>
>>
>>
>>
#西へ向かった人々を含めた分岐の順序を検討せずに、南回りの人々と北周りの人々を一つのグループで呼ぶのは”論理的な”態度ではありません。
私は、南回りの人々と別れた後、西(白人)と東へ分かれたと考えるほうが合理的だと思います。

>>
>>
#混血は、普通でしょ。

>>
>>
>>
#「故地」ってなんですか? そこでモンゴロイドがモンゴロイドでないヒトから進化したという意味なら、北周り説を取る限りそんな東のはずれのハズがないでしょ。おにりんさんは南回り説じゃありませんか。

#せっかくレスを下さるなら、もう少し”論理的”にお願いします。




23

Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月6日(土)21時10分05秒]

元の発言 [ Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ) ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 10月6日(土)13時57分00秒 ]

>> >> 政府や企業から金を貰っていない環境保護団体の方が大体正しい結論を出す事が多い。
>> >> って言うのはどうですか?
>> 捏造で功名あげるNGOもあったりして。
村おこしに利用する自治体もあったりする。
「せんせー、早く何か出してケロ」ってか。(^_^;)


24

Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ)

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [10月6日(土)21時26分11秒]

元の発言 [ Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月6日(土)21時10分05秒 ]

>> 村おこしに利用する自治体もあったりする。
>> 「せんせー、早く何か出してケロ」ってか。(^_^;)

吉野ヶ里は行政主導で実はだいぶ問題があるようなことを九大の先生方が言ってますね。


26

Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月7日(日)13時38分35秒]

元の発言 [ Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ) ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 10月6日(土)21時26分11秒 ]

>> 吉野ヶ里は行政主導で実はだいぶ問題があるようなことを九大の先生方が言ってますね。
遺跡保存には、予算獲得競争的なところがありますからある程度の拡大解釈が(^_^;)
佐賀平野の土器編年はまだ確定していないそうですし、
物見やぐらがあそこまで高かったかどうか、竪穴住居が立派過ぎないかとか色々あります。
物見やぐらは同規模のものが小郡市でも出てますが、こちらは消滅して宅地になってます。
九州で発見された「前方後方墳」の四つのうち三つが発見されている(二つは復元されている南内郭の上)方が考古学的課題がありそう。
ただ、一箇所で弥生集落の変遷が丘陵とその周辺で辿れる意義は大きいでしょう。


27

Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ)

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月7日(日)14時06分13秒]

元の発言 [ Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ) ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 10月6日(土)21時26分11秒 ]

>> >> 村おこしに利用する自治体もあったりする。
>> >> 「せんせー、早く何か出してケロ」ってか。(^_^;)

>> 吉野ヶ里は行政主導で実はだいぶ問題があるようなことを九大の先生方が言ってますね。

黒塚古墳の三角縁神獣鏡大量発掘の時、研究所の発表担当者が机に座って質問を受けていました。
大抵のテレビ局は卑弥呼の鏡を前提の質問をしていましたが返事はうやむやでした。
しかし発表されたテレビ報道は卑弥呼の鏡大量発掘でした。

その中で、あるテレビ局のレポーターが机に座っていない、横の方にいた若い橿原考古学研究所の研究員らしい人に「大量の三角縁神獣鏡発掘は逆に卑弥呼の鏡でない証拠になりませんか?」と突っ込みを入れていました。
それに対するその職員は「まあ、そうとも言えますね。」と答えていました。

おそらく橿原考古学研究所の中でも三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡でないことは共通認識になっているのでしょう。
なのに、マスコミが間違った報道をするのを容認している。
政治的か経済的理由か判りませんが研究者として、このような橿原考古学研究所の姿勢も問題があると思います。


28

異分野の専門家の意見です(茶々)

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月8日(月)13時45分37秒]

元の発言 [ Re: またまた、専門家の保証つき(チャチャ) ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月7日(日)14時06分13秒 ]

>> >> >> 村おこしに利用する自治体もあったりする。
>> >> >> 「せんせー、早く何か出してケロ」ってか。(^_^;)

>> >> 吉野ヶ里は行政主導で実はだいぶ問題があるようなことを九大の先生方が言ってますね。

>> 黒塚古墳の三角縁神獣鏡大量発掘の時、研究所の発表担当者が机に座って質問を受けていました。
>> 大抵のテレビ局は卑弥呼の鏡を前提の質問をしていましたが返事はうやむやでした。
>> しかし発表されたテレビ報道は卑弥呼の鏡大量発掘でした。

>> その中で、あるテレビ局のレポーターが机に座っていない、横の方にいた若い橿原考古学研究所の研究員らしい人に「大量の三角縁神獣鏡発掘は逆に卑弥呼の鏡でない証拠になりませんか?」と突っ込みを入れていました。
>> それに対するその職員は「まあ、そうとも言えますね。」と答えていました。

>> おそらく橿原考古学研究所の中でも三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡でないことは共通認識になっているのでしょう。
>> なのに、マスコミが間違った報道をするのを容認している。
>> 政治的か経済的理由か判りませんが研究者として、このような橿原考古学研究所の姿勢も問題があると思います。

だって研究所の人間だって霞を食っていきてるわけじゃない。僕は分野は科学だけど一応研究員だからそういう発言わかります。予算獲得競争はネタいっぱいあることはこしたたことは無い。それに素人にはいくら説明しても100%は理解しないこともいやというほど経験済みですもの。


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Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか大雑把には測れたでしょう

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月8日(月)14時25分07秒]

元の発言 [ Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月6日(土)13時58分16秒 ]

>> こんにちわ、池ちゃんさん。

>> 船乗りのカン(経験)は馬鹿に出来ないと思いますよ。
>> 僕のような調理師のはしくれでも、目で寸法や分量は
>> 測りますから。
>> 必ずしも計量カップとかスプーンを使わないですから。
>> ある程度経験でわかると思います。
どの通りとおもいます。魏志倭人伝記述と現代の地図との間に数度ずれがあろとか数度傾いているそれを地球の地軸歳差運動に起因させようとする議論はおかしいわけです。

>> 転載ですが、以下のように漢代の地理学もかなり進歩していたようです。
>> また、ご存じとは思いますが、九章算術についても、転載しておきました。

>> > 漢代の地理学
>> > 領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。
>>   天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者と
>>   されています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図で
。晋の司空(土木省長官)であ
>>   った裴秀(はいしゅう:224〜271)は、地理学と地図作製の手引書を著わしています。
でも張政らが張衡の発明した←[にすい軍]天儀こんてんぎ(一種天天球儀・星の角度も測れる)を持ち歩いた天体観測しながら邪馬台国に来たとは思えない。荘いう状況じゃないでしょ。天文学者を一行に加えるほど魏に余裕は無かったでしょ。
>> >
>> >  1.方田(耕地の面積を求める。)測量に関するもので、三角形、台形、
>> 円(1/2*c・1/2*dと1/4*cd)の面積を求める正しい公式と円の概算、
>> 3/4*ddと 1/12*ccが書かれている。ここではπは 3である。
>> >  2.粟米(穀物の量を算出する。)割合と比に関すること。
>> >  3.衰分(分け前を計算する。)パートナーシップと三数法(the Rule of
>> the Three)に関すること。
>> >  4.少広(長さを求める。)図形の辺の長さを求める。平方根、立方根も含む。
>> >  5.商功(体積を求める。)体積に関すること。
>> >  6.均輸(混合法(alligation))運動の問題(急使、ウサギと犬)と混合法に
>> 関するもの。
>> >  7.盈不足(過不足算)仮定法(the Rule of False Position)とここで用いら
>> れる二つの概念についての「過剰」と「不足」の二つの用語について。
>> >  8.方程(方程式)行列式の考えをいくらか含む連立一次方程式について。
>> >  9.句股(直角三角形)ピタゴラスの三角形に関すること。

このあたり後漢代西域が通じたためにメソポタミヤに蓄えられたそれに大秦国(ローマ帝国のことです)から知識が伝来したためです。


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埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月2日(火)20時49分14秒]

おにりんさん推奨の、埴原和郎の「人類の進化 −− 試練と淘汰の道のり」を読み終わりました。
最新の成果がよくまとまっており、特に欧米の学者の本よりアジアと日本人についての記述が多いことはよろしいと思います。それで新たな思いつき。

肌の色素を失うという進化はヨーロッパ人とアジア人で少なくとも2回起っており、比較的起りやすい異変だと思われます。(ただし、絶滅したタスマニア人は黒い肌のままでした。薄い色の肌を進化させる時間が無かったのか、黒い肌でもそれほど不利でない緯度だったのか、・・・。)
東南アジアへ、南アジア経由で進出する場合、肌の色素を失うメリットはありません。現にインド、ニューギニア、オーストラリアの人々は黒い肌を持っておりいます。したがって、肌の色が薄いアジア人(東アジア人も、東南アジア人も)は中緯度以北で進化し、南へ進出してきたと思われます。
私は、東南アジア人は北回りでやってきた人々だと考えるに至りました。今までなんとなく、南回りのイメージを持っていましたが、それだと肌の色の説明がつきません。


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Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか大雑把には測れたでしょう

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月8日(月)14時25分50秒]

元の発言 [ Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月6日(土)13時58分16秒 ]

>> こんにちわ、池ちゃんさん。

>> 船乗りのカン(経験)は馬鹿に出来ないと思いますよ。
>> 僕のような調理師のはしくれでも、目で寸法や分量は
>> 測りますから。
>> 必ずしも計量カップとかスプーンを使わないですから。
>> ある程度経験でわかると思います。
その通りとおもいます。魏志倭人伝記述と現代の地図との間に数度ずれがあろとか数度傾いているそれを地球の地軸歳差運動に起因させようとする議論はおかしいわけです。

>> 転載ですが、以下のように漢代の地理学もかなり進歩していたようです。
>> また、ご存じとは思いますが、九章算術についても、転載しておきました。

>> > 漢代の地理学
>> > 領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。
>>   天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者と
>>   されています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図で
。晋の司空(土木省長官)であ
>>   った裴秀(はいしゅう:224〜271)は、地理学と地図作製の手引書を著わしています。
でも張政らが張衡の発明した←[にすい軍]天儀こんてんぎ(一種天天球儀・星の角度も測れる)を持ち歩いた天体観測しながら邪馬台国に来たとは思えない。荘いう状況じゃないでしょ。天文学者を一行に加えるほど魏に余裕は無かったでしょ。
>> >
>> >  1.方田(耕地の面積を求める。)測量に関するもので、三角形、台形、
>> 円(1/2*c・1/2*dと1/4*cd)の面積を求める正しい公式と円の概算、
>> 3/4*ddと 1/12*ccが書かれている。ここではπは 3である。
>> >  2.粟米(穀物の量を算出する。)割合と比に関すること。
>> >  3.衰分(分け前を計算する。)パートナーシップと三数法(the Rule of
>> the Three)に関すること。
>> >  4.少広(長さを求める。)図形の辺の長さを求める。平方根、立方根も含む。
>> >  5.商功(体積を求める。)体積に関すること。
>> >  6.均輸(混合法(alligation))運動の問題(急使、ウサギと犬)と混合法に
>> 関するもの。
>> >  7.盈不足(過不足算)仮定法(the Rule of False Position)とここで用いら
>> れる二つの概念についての「過剰」と「不足」の二つの用語について。
>> >  8.方程(方程式)行列式の考えをいくらか含む連立一次方程式について。
>> >  9.句股(直角三角形)ピタゴラスの三角形に関すること。

このあたり後漢代西域が通じたためにメソポタミヤに蓄えられたそれに大秦国(ローマ帝国のことです)から知識が伝来したためです。


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Re: 異分野の専門家の意見です(茶々)

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月9日(火)19時18分44秒]

元の発言 [ Re: 異分野の専門家の意見です(茶々) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月9日(火)11時57分08秒 ]

>>
>>
>>
文献学というのもまずは
清朝の文献考証学くらいちゃんと学んで議論するくらい
セミプロとはみとめますけど。
なんか漢文なんとか読めますというレベルの人は多すぎる邪馬台国論争には
>>
>>
>>
>>
>>
まあ僕は考古学の専門外だからでも区別はつきますね。
セミプロの本はレファレンスがちゃんとついていない。
平気で他の本の図を無断コピーしてあったりするんだな
アカデミックなメソッドを知らないんだもん。
これをいうと学問というのは閉鎖的であかんという人がいてまあ水掛け論になってしまう。

>>
>>
>>
>>
まあ
そうですね。
>>
>>
競馬でいえば十万馬券
囲碁でいえば無駄石ですね
麻雀で言えば上がり牌すべて河捨てられているあとは
カンして嶺上開花で上がりを狙うようなものといえましょう。
>>
>>
>>
実証できる可能性のないというのは学説と認められませんね。

>>
矢追純一のUFOを追うシリーズと大同小異ですね。




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Re: Title やっぱり日本に旧石器時代はなかった

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月9日(火)19時34分49秒]

元の発言 [ Title やっぱり日本に旧石器時代はなかった? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月9日(火)10時56分17秒 ]

たしかに日本列島自体が基本的な骨格が結構最近でしょ
そうそう旧石器時代の遺跡がゴキブリみたいに見つかる筈はないんですよね。
秩父は地質的に結構古いんですがやはり捏造でしたか。


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Re: Title やっぱり日本に旧石器時代はなかった(揚げ足取り)

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月9日(火)21時19分38秒]

元の発言 [ Re: Title やっぱり日本に旧石器時代はなかった ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月9日(火)19時34分49秒 ]

>> たしかに日本列島自体が基本的な骨格が結構最近でしょ
>> そうそう旧石器時代の遺跡がゴキブリみたいに見つかる筈はないんですよね。
>> 秩父は地質的に結構古いんですがやはり捏造でしたか。

えーとたぶん旧石器というか第四期200万年前にはおおよそ骨組みは出来ていたでしょ。
最後の大掛かりな変化はグリーンタフ変動で1000万年前には終わっているでしょ。
まさか秩父と言うのは秩父古生層のことではないですよね。
三億年ほど前ですが・・・

地質年代と人間の歴史は桁違いですから。
もっとも旧人の時代は日本では火山活動が盛んだから、旧石器は出ないという理屈は子供の頃聞きました。

あの変なおじさんは水成層のなかから石器を見つけてきたりする人だったらしいです。
日本の旧石器遺跡をみていると、何にも腐食物のないまっ黄色な土の中から遺物が出てきて、不審に思ったことがありました。

私も多少発掘はやったことがありますが、縄文にしろ弥生にしろ、大概真っ黒か、少なくとも黒っぽい土の中から出てきましたから。
まあ色は灰色にしろ茶色にしろ、人間の生活跡は多少腐食物を含んだ土の中から出てきそうに思うんですが。

私もたいした経験が無いので断言したり出来ません・・・


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Title出雲における鉄の生産とスサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月9日(火)22時10分07秒]

司馬遼太郎の「鉄と古代 砂鉄のみち」によると、鉄の精製は木炭の為に莫大な木を必要とするらしいです。
加羅において鉄を生産していた工人達が加羅で森林を切り尽くし、新たな森林を求めて出雲に来たのではないか。
その一族の伝承が新羅から来たスサノオに繋がっているのではないか。との事でした。

三国志の時代は倭人は韓半島から鉄を手に入れていました。
という事はスサノオは卑弥呼より大分時代が下がってから来た事になります。
天照大神と兄弟であるスサノオが卑弥呼よりかなり遅く現れたとなると、天照大神でさえ卑弥呼の候補から外れる事になります。


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大雑把でなく以外と精密に測れたでしょう。

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月10日(水)09時45分21秒]

元の発言 [ Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか大雑把には測れたでしょう ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月8日(月)14時25分50秒 ]

>> >>   天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者と
>> >>   されています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図で
>> 。晋の司空(土木省長官)であ
>> >>   った裴秀(はいしゅう:224〜271)は、地理学と地図作製の手引書を著わしています。

>> でも張政らが張衡の発明した←[にすい軍]天儀こんてんぎ(一種天天球儀・星の角度も測れる)を持ち歩いた天体観測しながら邪馬台国に来たとは思えない。荘いう状況じゃないでしょ。天文学者を一行に加えるほど魏に余裕は無かったでしょ。

少なくとも韓半島内は魏晋の安全保障にかかわる事ですから、邪馬台国への使節とは関わりなく正確に把握しておく必要があって正しい地勢を調べていたのではないでしょうか。
もしかして日本列島も魏の安全保障にとって重要と認識していたかも知れません。

>> このあたり後漢代西域が通じたためにメソポタミヤに蓄えられたそれに大秦国(ローマ帝国のことです)から知識が伝来したためです。

秦の始皇帝によって焚書されていなければ中国でももっと古い時代から数学や地理学について進んでいたかもしれません。
現近代では戦争は科学を発展させましたが古代では遅滞後退をさせた事も多かったようです。


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Re: 異分野の専門家の意見です(茶々)

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [10月10日(水)10時08分54秒]

元の発言 [ Re: 異分野の専門家の意見です(茶々) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月10日(水)00時46分32秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
下の本は九州説でしょうね。

蝦夷と倭人(1999年2月20日初版)阿部義平著

その分野の専門ではないようですが、考古学者では有るようです。
あとは例の森 博達氏。
やっぱり専門家ではないですかね。





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Re: 大雑把でなく意外と精密に測れたでしょう。

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月10日(水)14時11分50秒]

元の発言 [ Re: 大雑把でなく以外と精密に測れたでしょう。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月10日(水)13時11分16秒 ]

↑タイトルに誤りがありましたので修正しました。

>>
>>
>>
>>
私は周髀算経を呼んだ事はないのですが
http://www.ha-kodai.com/lib/ri.txtによれば
「周の天文数学書である周髀算経に、洛陽付近の緯度で夏至の正午に長さ八尺の棒(周髀)を地面に
立てるとその影の長さが一尺六寸であり、南に千里離れると影の長さが一尺五寸、北に千里で一尺
七寸になるとある。冬至での影の長さは一丈三尺五寸である。
南北千里毎に緯度が0.69°異なるので、地球の半径から南に千里で76.9km、北に千
里で76.3kmと計算される 。その1里は中心地点で76.6mである。」
だそうです。

76.6mはともかく、周髀一本持っていけばおおよその緯度がわかるし、yaohide さんの指摘にある
>>  1.方田(耕地の面積を求める。)測量に関するもので、三角形、台形の面積を求める正しい公式
>>  9.句股(直角三角形)ピタゴラスの三角形に関すること。
などが解っていれば当然、三角測量もできていた筈です。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
知識があって必要があったから測っていただろうと考えるのはあたりまえ。
中国人が知識があったのに三角測量はせずに歩測という原始的な方法で距離を割り出していたとおっしゃっているのですか?
里を知っていた中国人というのは測る事が出来たと言う事で、知らない倭人は測る事が出来なかったということだと思いますが。



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Re: 大雑把でなく意外と精密に測れたでしょう。

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月10日(水)19時12分05秒]

元の発言 [ Re: 大雑把でなく意外と精密に測れたでしょう。 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月10日(水)14時11分50秒 ]

>> 知識があって必要があったから測っていただろうと考えるのはあたりまえ。
>> 中国人が知識があったのに三角測量はせずに歩測という原始的な方法で距離を割り出していたとおっしゃっているのですか?
>> 里を知っていた中国人というのは測る事が出来たと言う事で、知らない倭人は測る事が出来なかったということだと思いますが。

同感です。倭人は知識はなかったと思いますが、
中国人は知っていたでしょう。

ちなみに句股は(本当は字が違うみたいだが、、、)
足を横から見て、膝を曲げた形の事をいうそうです。
たしかに三角になりますね。




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Re: 大雑把でなく意外と精密に測れたでしょう。

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [10月10日(水)19時45分42秒]

元の発言 [ Re: 大雑把でなく意外と精密に測れたでしょう。 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月10日(水)19時12分05秒 ]

>> 同感です。倭人は知識はなかったと思いますが、
>> 中国人は知っていたでしょう。

# 周髀の句股法は三角形の相似を使って底辺がわかれば高さがわかるという原理ですから、相当長い基調線をあらかじめ測定していないと応用ができないのです。

# つまり、どっちにしても歩測に頼るわけです。はっきり言って実用性のあるものではありません。西域から伝わった知識が観念論の中で敷衍されたものに過ぎないと評価すべきものと思います。




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大雑把にしか測れなかったでしょう。

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月10日(水)21時56分42秒]

元の発言 [ Re: 大雑把でなく意外と精密に測れたでしょう。 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 10月10日(水)19時45分42秒 ]

>> # つまり、どっちにしても歩測に頼るわけです。はっきり言って実用性のあるものではありません。西域から伝わった知識が観念論の中で敷衍されたものに過ぎないと評価すべきものと思います。

そうですよね。xで中国に蓄えられた知識は相当
西域経由のものが多いという学説ここ数十年ふえています
日本の弥生時代についてだけでなく中国に関しても進歩があります。中国星座二十八宿もメソポタミヤあたり起源です。中国産とされる太陰暦のあたり、中国オリジナルではなさそうです。戦国春秋時代に精密に計測できたという証拠は全くありません。
大体清朝末期あたり地球が球だということが認識され
たくらいのです。中国とはいうのは元末明初に西洋遠近法やっと伝わった。最初のうち、洋書を翻訳本の挿絵を

中国人の絵師達は相当苦労して書き写している。
ほんと、3歳児位の空間認識なかった。
苦闘あとが現在に伝わっています。




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Re: Title やっぱり日本に旧石器時代はなかった(揚げ誤←挙げ正足とられました

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月10日(水)22時11分48秒]

元の発言 [ Re: Title やっぱり日本に旧石器時代はなかった(揚げ足取り) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 10月9日(火)21時19分38秒 ]

>> >> たしかに日本列島自体が基本的な骨格が結構最近でしょ
>> >> そうそう旧石器時代の遺跡がゴキブリみたいに見つかる筈はないんですよね。
>> >> 秩父は地質的に結構古いんですがやはり捏造でしたか。

>> えーとたぶん旧石器というか第四期200万年前にはおおよそ骨組みは出来ていたでしょ。
>> 最後の大掛かりな変化はグリーンタフ変動で1000万年前には終わっているでしょ。
>> まさか秩父と言うのは秩父古生層のことではないですよね。
まさしくおっしゃる通り
手元に地質年代にかんする本がみつからなかったもんで。
ちょっと張ったりをかましてみたんですが。ばれちゃった。でも尾花沢っていうのは場所の地質的そこまでふるいかどうか結構微妙じゃないですか?
>> 三億年ほど前ですが・・・

>> 地質年代と人間の歴史は桁違いですから。
>> もっとも旧人の時代は日本では火山活動が盛んだから、旧石器は出ないという理屈は子供の頃聞きました。

>> あの変なおじさんは水成層のなかから石器を見つけてきたりする人だったらしいです。
>> 日本の旧石器遺跡をみていると、何にも腐食物のないまっ黄色な土の中から遺物が出てきて、不審に思ったことがありました。

>> 私も多少発掘はやったことがありますが、縄文にしろ弥生にしろ、大概真っ黒か、少なくとも黒っぽい土の中から出てきましたから。
>> まあ色は灰色にしろ茶色にしろ、人間の生活跡は多少腐食物を含んだ土の中から出てきそうに思うんですが。

>> 私もたいした経験が無いので断言したり出来ません・・・



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話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月11日(木)11時01分45秒]

元の発言 [ 大雑把にしか測れなかったでしょう。 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月10日(水)21時56分42秒 ]

yaohide さんの指摘でも解るように漢の時代に中国国内の地図が出来ていた事は確実で魏が地図を持っていた事も確実でしょう。
巻尺のようなものがなかったにしても(定尺紐位は使ったかも)直線距離は測れた。
そして三角測量の知識ももっていた。
だから方位も測れた事は間違いありません。

正確な測定と言えば近代でもたいした測量技術が会ったわけではなく、伊能忠敬もベースは歩測ですよね。
これに三角測量を組み合わせて測量した。
江戸時代の日本は1800年前の中国と同程度でしかなかったわけです。
日本は土地も狭く太閤検地など縄で長さを測って広さを計算すれば済みました。
だから測量技術も必要なく、日本の地図は酷く不正確なものしかない。
中国は広大な国土を把握するのに測量技術は欠かせなく、それなりに正確な地図を持っていたのでしょう。
地図があれば方位もわかる。
そして中国国内で地図を使っていれば周辺国の地理も地図で理解しようとするでしょう。
魏使が倭国の地理を正確に調査したかどうかは定かでありませんが、距離が5倍になったり、方位が90°狂うような事はまずありえない事です。


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Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月11日(木)13時33分43秒]

元の発言 [ 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月11日(木)11時01分45秒 ]

どの程度の直線距離が測れれば、よしとされるのか
わかりませんが、、、
まず巨大建築物(宮殿とか墓稜など)があるのですから
100mの単位では測れたでしょう。
あと、道路ですが、直線の道路の存在はあまりないはず
ですし、滑走路のような3000mの直線は必要がない。
ということは、都市間の距離は、直線距離というものは
まったく意味をなさないですね。

ですから、地図を作るにおいて、それなりに正確な
歩測ができれば、十分なのではないでしょうか?
まあ、日本のことですから重要な地図はそれほど
必要としないから、まともなものはないといえば
それですべておしまいで、なにも信じることは
できなくなります。

また陳寿の立場を考えれば、司馬氏の意向に添った
記述をしたと思えます。
ですから、距離を伸ばすなど簡単なことであり、
大きな国を配下にしたと書くのも当然と思われます。




50

Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月11日(木)13時54分38秒]

元の発言 [ 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月11日(木)11時01分45秒 ]

>> yaohide さんの指摘でも解るように漢の時代に中国国内の地図が出来ていた事は確実で魏が地図を持っていた事も確実でしょう。
なんで確実なんですか?yaohideさんは三国時代の地図は故宮に残っています。いま現存してますといいましたか?
張松が劉備に蜀の地図を見せたという史実を語ったにすぎない。
その頃は地図は街道に城街が順番に並んでいるというレベルでしょう。今の地図のようなものを想定するから大間違い
に>> 巻尺のようなものがなかったにしても(定尺紐位は使ったかも)直線距離は測れた。
>> そして三角測量の知識ももっていた。
そりゃ時の為政者が正確な地図をつくろうとする意志が別
>> だから方位も測れた事は間違いありません。そう断言出来る論理がおかしいのでは
>> 正確な測定と言えば近代でもたいした測量技術が会ったわけではなく、伊能忠敬もベースは歩測ですよね。
>> これに三角測量を組み合わせて測量した。
それはわかっている
>> 江戸時代の日本は1800年前の中国と同程度でしかなかったわけです。
訂正すべきここの文章江戸時代測量技術は蘭学の影響で
1800年前中国よりも測量技術もっていた。
それに時の為政者江戸幕府は作図意志をもって援助与えたその結果が伊能忠敬の地図というわけです。
>> 日本は土地も狭く太閤検地など縄で長さを測って広さを計算すれば済みました。
>> だから測量技術も必要なく、日本の地図は酷く不正確なものしかない。
>> 中国は広大な国土を把握するのに測量技術は欠かせなく、それなりに正確な地図を持っていたのでしょう。
>> 地図があれば方位もわかる。
方位がわかなければ作図不可能です
、距離が5倍になったり、方位が90°狂うような事はまずありえない事です。
ありえる程度の測量技術しか23世紀の中国は持っていなかった
あのね。だから清朝に欧州アヘン戦争であっさり負けたのです。中国には実学は発達しなかった。これは中国史を専門をするひとの常識です!!!!



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Re: だったら戦国時代から作られていた万里の長城や運河はどうなるの?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [10月11日(木)18時03分13秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月11日(木)13時54分38秒 ]

>> ありえる程度の測量技術しか23世紀の中国は持っていなかった
>> あのね。だから清朝に欧州アヘン戦争であっさり負けたのです。中国には実学は発達しなかった。これは中国史を専門をするひとの常識です!!!!
ちとひどすぎるんじゃないですか。
戦国時代から現代に残る治水用の堤防とか、
山を縫って作れれている用水とか、また万里の長城とか、運河とか、もし正確な地図とか標高の高さのはかり型とか、ないんならどうやって作ったって言うんですか?
教えていただきたい物です。
それが無ければ、工事自体が成り立たないでしょう?




52

Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月11日(木)20時23分31秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月11日(木)13時54分38秒 ]

>> あのね。だから清朝に欧州アヘン戦争であっさり負けたのです。中国には実学は発達しなかった。これは中国史を専門をするひとの常識です!!!!

アヘン戦争に負けた原因とこの問題は関係ありません。
本来、満民族であった清朝は、漢民族ほどの能力は
ありません。まして、腐敗しきった時代ですから
当然の結果でしょう。

実際には、もう少し計算ができたと思います。
建築物、戦争など、武器の製造、城の構築、兵糧の
管理、輸送。
人夫の計算などできなければ、戦争など出来るはずがない。
実学がなければ、船一つ作れないことになりませんか。




53

Re: だったら戦国時代から作られていた万里の長城や運河はどうなるの?

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月11日(木)20時47分14秒]

元の発言 [ Re: だったら戦国時代から作られていた万里の長城や運河はどうなるの? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 10月11日(木)18時03分13秒 ]

>> >> ありえる程度の測量技術しか23世紀の中国は持っていなかった
>> >> あのね。だから清朝に欧州アヘン戦争であっさり負けたのです。中国には実学は発達しなかった。これは中国史を専門をするひとの常識です!!!!
>> ちとひどすぎるんじゃないですか。
>> 戦国時代から現代に残る治水用の堤防とか、
なぜ現代まで残っているかといえばその堤かいてあります防が使われつづけ改修改修で今荷残っている部分は後世のものがメインだからです。
>> 山を縫って作れれている用水とか、また万里の長城とか、
まさかよく写真で見られるきれいな曲面で構成される観光名所でよく観光客が行ける部分は明朝に作られていますそんなことは
観光ガイドにも書いてあります

もう一戦国時代に作られた万里長城の遺構を見るとわかりますがあれは各国(政王以前の秦、趙、魏、燕)勝手に自然稜線に石積んだだけ
人海戦術あと、中国ってのは昔から労働力は豊富です。
「愚公山を移す」という中国の昔の諺はあれは比喩じゃなくて一面現実を映しているんですよ。
建築技術はタラスの戦いで唐朝にイスラム勢力間大規模戦闘で技術者の捕虜のやり取りで行われた。
建築技術が東洋製紙方法が西洋に伝来したこれが世界史の技術史の常識です。
運河とか、
あの長江黄河間に運河隋朝に作られた自然河川を掘削補強したものです。これも常識
もし正確な地図とか標高の高さのはかり型とか、ないんならどうやって作ったって言うんですか?
>> 教えていただきたい物です。
>> それが無ければ、工事自体が成り立たないでしょう?
↑この発想は現代人の発想です。まずは地図なくちゃなんにもできないなんての頭が硬くなっている証拠。




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Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月11日(木)21時07分51秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月11日(木)20時23分31秒 ]

>> >> あのね。だから清朝に欧州アヘン戦争であっさり負けたのです。中国には実学は発達しなかった。これは中国史を専門をするひとの常識です!!!!

>> アヘン戦争に負けた原因とこの問題は関係ありません。
結局艦船能力やら大砲火薬そのあたりで技術力
>> 本来、満民族であった清朝は、漢民族ほどの能力は
>> ありません。
まあね。でも技術官僚は中国人でしょう
まして、腐敗しきった時代ですから
>> 当然の結果でしょう。
中国ってのは安定帝国期のあと必ず腐敗します。
われわれの非常に身近な某国もそうですが

>> 実際には、もう少し計算ができたと思います。
>> 建築物、戦争など、武器の製造、城の構築、兵糧の
>> 管理、輸送。
>> 人夫の計算などできなければ、戦争など出来るはずがない。
>> 実学がなければ、船一つ作れないことになりませんか。
当然四則演算はもちろんです。
船と地図では大きさ違いすぎる。
城と列島までの地図は規模が違いすぎる。

これは全く中国と話しがちがいますが。
南仏にオートリーブ問い村にシュバル理想宮というのがありますが
18世紀末頃郵便配達夫が独力でセメント砂で
独創的な宮殿を作ったんです。別に特殊な
建築学学んだ訳もなく。ほとんど
子供砂場遊び大規模にしたレベルです。
勿論一度観光客数十人上がると崩壊の危険がありますが
まあ、ちゃんとした知識がなくたって人間なんとかするものです。
この理想宮は日本で発行されているメジャーな観光ガイド
には全く載っていないです。場所ちょっと行きにくい
んですよね。それに万人受けしないデザインの宮殿
です。
穴場穴場中大穴南フランス観光名所




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Re: Title出雲における鉄の生産とスサノオ

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月11日(木)21時41分57秒]

元の発言 [ Title出雲における鉄の生産とスサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月9日(火)22時10分07秒 ]

>> 司馬遼太郎の「鉄と古代 砂鉄のみち」によると、鉄の精製は木炭の為に莫大な木を必要とするらしいです。
>> 加羅において鉄を生産していた工人達が加羅で森林を切り尽くし、新たな森林を求めて出雲に来たのではないか。
そうかな木材求めて海に乗り出す?まさか切り尽くし
たら朝鮮半島内で調達をかんがえるんじゃないかな。
名工がいて雲州の備長炭が是非必要だなんて
>> その一族の伝承が新羅から来たスサノオに繋がっているのではないか。との事でした。
まあ出雲と新羅との関係否定するつもりはないですが。

>> 三国志の時代は倭人は韓半島から鉄を手に入れていました。
鉄は地質的出るところ出ないとこありますから
そりゃ一応史書に残るところですけども木材をとりに出雲に行くっていうのはねー。憶測の域を出ない
>> という事はスサノオは卑弥呼より大分時代が下がってから来た事になります。
まあ新羅とスサノオをリンクするとすればね
>> 天照大神と兄弟であるスサノオが卑弥呼よりかなり遅く現れたとなると、天照大神でさえ卑弥呼の候補から外れる事になります。
ちょっと待ったここに論理の飛躍あります。スサノオは
天照大神は神話の人物です。実在を誰も証明しておりません。日本神道を基礎学びましょう。
天照大神は伊勢系祖神です。スサノオは出雲系祖神です。
両者が神話の中姉弟とされているというだけ。



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Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月11日(木)23時15分35秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月11日(木)20時23分31秒 ]

>> >> あのね。だから清朝に欧州アヘン戦争であっさり負けたのです。中国には実学は発達しなかった。これは中国史を専門をするひとの常識です!!!!

>> アヘン戦争に負けた原因とこの問題は関係ありません。
>> 本来、満民族であった清朝は、漢民族ほどの能力は
>> ありません。まして、腐敗しきった時代ですから
>> 当然の結果でしょう。

>> 実際には、もう少し計算ができたと思います。
>> 建築物、戦争など、武器の製造、城の構築、兵糧の
>> 管理、輸送。
>> 人夫の計算などできなければ、戦争など出来るはずがない。
>> 実学がなければ、船一つ作れないことになりませんか。

中国も紀元前から漢の400年を除いて北宋くらいまでは国内が統一されていた期間は少なく、分裂し戦っていました。
この頃は地理学はすごく重要で発達したが北宋の後半からは政権交代は一気に全体が替わっています。
国内で分裂して戦う事が無かった時代は地理の感覚は必要が無く地理学も廃れたのではないかと想像します。

三国志の時代は地理学も重要だった筈です。



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Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月11日(木)23時15分50秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月11日(木)21時07分51秒 ]

>> 当然四則演算はもちろんです。
>> 船と地図では大きさ違いすぎる。
>> 城と列島までの地図は規模が違いすぎる。

>> まあ、ちゃんとした知識がなくたって人間なんとかするものです。

ならば、ちゃんとした知識がなくても、大きな地図がかけそうですね。
小さな地図をいくつか集めれば、できそうな気がしますが、、、

まあ、これはおいといて。

ということになると、方位もあやしい、距離もあやしい。
結局、魏志倭人伝から場所を決めることは絶対にできないといわれるわけですね。

元からあやしい記述なのですから、距離、方向に関して
論議しても、さして意味がないということですか。

そして、現在では畿内が、「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」ではないという根拠がないので、畿内に決定なんて、一部の人が言ってますが、ありえないですな。



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土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月12日(金)07時02分28秒]

元の発言 [ Re: Title出雲における鉄の生産とスサノオ ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月11日(木)21時41分57秒 ]

>> >> 司馬遼太郎の「鉄と古代 砂鉄のみち」によると、鉄の精製は木炭の為に莫大な木を必要とするらしいです。
>> >> 加羅において鉄を生産していた工人達が加羅で森林を切り尽くし、新たな森林を求めて出雲に来たのではないか。
>> そうかな木材求めて海に乗り出す?まさか切り尽くし
>> たら朝鮮半島内で調達をかんがえるんじゃないかな。
>> 名工がいて雲州の備長炭が是非必要だなんて

半島は雨が少なく木を切ってしまうと百年以上再生は無理だそうです。
日本なら30年あれば又、木が使える程度に再生します。
半島で木を求めてさまよっていた工人にとっては出雲は移動しなくて済む素晴らしい土地だったに違いありません。

>> >> その一族の伝承が新羅から来たスサノオに繋がっているのではないか。との事でした。
>> まあ出雲と新羅との関係否定するつもりはないですが。

>> >> 三国志の時代は倭人は韓半島から鉄を手に入れていました。
>> 鉄は地質的出るところ出ないとこありますから
>> そりゃ一応史書に残るところですけども木材をとりに出雲に行くっていうのはねー。憶測の域を出ない
>> >> という事はスサノオは卑弥呼より大分時代が下がってから来た事になります。
>> まあ新羅とスサノオをリンクするとすればね
>> >> 天照大神と兄弟であるスサノオが卑弥呼よりかなり遅く現れたとなると、天照大神でさえ卑弥呼の候補から外れる事になります。
>> ちょっと待ったここに論理の飛躍あります。スサノオは
>> 天照大神は神話の人物です。実在を誰も証明しておりません。日本神道を基礎学びましょう。
>> 天照大神は伊勢系祖神です。スサノオは出雲系祖神です。
>> 両者が神話の中姉弟とされているというだけ。

元々出雲には海蛇を神とする土着信仰があったそうです。
これがスサノオによって滅ぼされるのがヤマタノオロチ伝説の可能性があります。
畿内にも大物主のように蛇を信仰対象にする土着信仰があった可能性があります。
いずれも後に外来の神に主役を取って代わられてしまう訳です。
新しい神をもった種族の到来を示唆しています。




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Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月12日(金)09時23分43秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月11日(木)23時15分50秒 ]

>> >> 当然四則演算はもちろんです。
>> >> 船と地図では大きさ違いすぎる。
>> >> 城と列島までの地図は規模が違いすぎる。

>> >> まあ、ちゃんとした知識がなくたって人間なんとかするものです。

>> ならば、ちゃんとした知識がなくても、大きな地図がかけそうですね。
>> 小さな地図をいくつか集めれば、できそうな気がしますが、、、

>> まあ、これはおいといて。
山海経の内容は小さな地図ではなくていくつかの伝聞+地方伝説集めた大きな地図という訳ではなく大きな地理志という最初に現れた書物というわけ。北倭南倭の読み間違いをネタを提供したあの本です。黒歯国裸人国の記述のルーツになった本ですよ。

>> ということになると、方位もあやしい、距離もあやしい。
>> 結局、魏志倭人伝から場所を決めることは絶対にできないといわれるわけですね。
まあ当然ですね。魏志倭人伝を一字一句検討しても決めるわけは無いです。

>> 元からあやしい記述なのですから、距離、方向に関して
>> 論議しても、さして意味がないということですか。
そうそう
>> そして、現在では畿内が、「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」ではないという根拠がないので、畿内に決定なんて、一部の人が言ってますが、ありえないですな。
ありえません。勿論東渡海の倭種の国が近畿の国に当たるから邪馬台国は九州にあるんだという議論成り立ちません。



6

Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月3日(水)20時44分21秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月3日(水)09時51分17秒 ]

>>
>>
>>
>>
#おー! おにりんさんと意見が一致してしまった。
私は、なんとなく東アジア人に対して南回りのイメージを持っていたので、大発見のつもりでいたのですが、おにりんさんには北回りが常識でしたか。

ところで、日本人は「短足」という非常に明確な標識を持っているのに、日本人の起源を論じるのに人類学者がこの標識に着目しないのは実に不思議です。いわゆる縄文系も弥生系も等しく短足であると私は認識しています。日本人は北回りの人々の中でも特に寒いところで暮らしていたグループの子孫だと思われます。「東アジア短足マップ」を作ったら、日本人のルーツが一目でわかるに違いありません。

もちろん、タイムスケールをきちんと押さえた議論が必要であることは言うまでもありません。短足族の進化は例えば7〜4万年前、日本民族を縄文人と考えてもその成立はせいぜい2万年前でしょうか。だから、日本人の主力が華南方面から来たという説も当然可能です。





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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月12日(金)10時01分37秒]

元の発言 [ 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月12日(金)07時02分28秒 ]

>> >> >> 司馬遼太郎の「鉄と古代 砂鉄のみち」によると、鉄の精製は木炭の為に莫大な木を必要とするらしいです。
>> >> >> 加羅において鉄を生産していた工人達が加羅で森林を切り尽くし、新たな森林を求めて出雲に来たのではないか。
>> >> そうかな木材求めて海に乗り出す?まさか切り尽くし
>> >> たら朝鮮半島内で調達をかんがえるんじゃないかな。
>> >> 名工がいて雲州の備長炭が是非必要だなんて

>> 半島は雨が少なく木を切ってしまうと百年以上再生は無理だそうです。
>> 日本なら30年あれば又、木が使える程度に再生します。
勿論存じております。高麗は蒙古に攻められて上日本遠征用軍船を造らされて国土は丸裸になってしまいました。結局高麗は滅びました。百年というのは大げさです。

>> 半島で木を求めてさまよっていた工人にとっては出雲は移動しなくて済む素晴らしい土地だったに違いありません。
半島から列島に来るには対馬暖流に乗れば出雲に来易いしかし列島から半島へはせめて長門くらいまできて九州まで
来ないと風待ちをしなくては半島にもどれません。
工人は鉄鉱石にある方に居つくとおもうけど。

>> >> >> その一族の伝承が新羅から来たスサノオに繋がっているのではないか。との事でした。
勿論出雲国風土記にあるような国寄せ神話あるように
韓半島北陸との交流は否定しません。スサノオが半島人ですか確固たる状況証拠が無いとおもうですが
>> >> まあ出雲と新羅との関係否定するつもりはないですが。

>> >> >> 三国志の時代は倭人は韓半島から鉄を手に入れていました。
>> >> 鉄は地質的出るところ出ないとこありますから
>> >> そりゃ一応史書に残るところですけども木材をとりに出雲に行くっていうのはねー。憶測の域を出ない
>> >> >> という事はスサノオは卑弥呼より大分時代が下がってから来た事になります。
>> >> まあ新羅とスサノオをリンクするとすればね
>> >> >> 天照大神と兄弟であるスサノオが卑弥呼よりかなり遅く現れたとなると、天照大神でさえ卑弥呼の候補から外れる事になります。
>> >> ちょっと待ったここに論理の飛躍あります。スサノオは
>> >> 天照大神は神話の人物です。実在を誰も証明しておりません。日本神道を基礎学びましょう。
>> >> 天照大神は伊勢系祖神です。スサノオは出雲系祖神です。
>> >> 両者が神話の中姉弟とされているというだけ。

>> 元々出雲には海蛇を神とする土着信仰があったそうです。
>> これがスサノオによって滅ぼされるのがヤマタノオロチ伝説の可能性があります。
つまり海蛇を祖神とする勢力がスサノオ疎神とする半島系渡来人に滅ぼされさらに近畿天照大神を祖神とする勢力(吉備も加わっているかも)に滅ぼされたとするわけですね
>> 畿内にも大物主のように蛇を信仰対象にする土着信仰があった可能性があります。
大物主は取り扱いを慎重に。日本神道ではスサノオと大物主は同系列です。スサノオと大物主は国神系で出雲や機内
以外北陸越の国を代表してい可能性があります。
大物主が天神系に負けたという伝承は出雲畿内勢力に負けたという事実を受けて
>> いずれも後に外来の神に主役を取って代わられてしまう訳です。
↑この説はダブルカウントしてます。外来の神=出雲にとって畿内勢力という可能性を
御説は知らずに排除しているよう思われます。
>




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Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月12日(金)13時00分53秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月12日(金)09時23分43秒 ]

>> 山海経の内容は小さな地図ではなくていくつかの伝聞+地方伝説集めた大きな地図という訳ではなく大きな地理志という最初に現れた書物というわけ。北倭南倭の読み間違いをネタを提供したあの本です。黒歯国裸人国の記述のルーツになった本ですよ。

山海経の事をいっているわけではありませんよ。
あれは物の怪のような、珍獣図鑑に近いものでしょう。
そうではなくて、戦争などに使われる地図などを
小さな地図を張り合わせるような作り方で、大きな
地図をつくることも可能ではないかという話です。

>> ありえません。勿論東渡海の倭種の国が近畿の国に当たるから邪馬台国は九州にあるんだという議論成り立ちません。

うーん、それは変ですね。
東渡海の倭種の国は近畿ではないとなぜ言い切れるのでしょうか?
陳寿が、実際よりも大げさに記述したのではないかという
ことは、よく言われる話です。
距離もそうなら、国を大きく書くこともあるわけです。
司馬氏の功績を大きなものにすることで、自分の出世の
道をつくったとも言えると思います。

東渡海の倭種の国があると書いていることは、魏に服し
ていない国が日本にはまだまだあるということを示し
ていますよね。




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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月12日(金)15時11分04秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月12日(金)10時01分37秒 ]

>> 半島から列島に来るには対馬暖流に乗れば出雲に来易いしかし列島から半島へはせめて長門くらいまできて九州まで
>> 来ないと風待ちをしなくては半島にもどれません。
>> 工人は鉄鉱石にある方に居つくとおもうけど。

日本国内で木と鉄鉱石と需要があれば工人もそれなりの地位待遇が得られたでしょうから日本国内に住みついたでしょう。
出雲に移住してきても問題はないです。

>> >> >> >> その一族の伝承が新羅から来たスサノオに繋がっているのではないか。との事でした。
>> 勿論出雲国風土記にあるような国寄せ神話あるように
>> 韓半島北陸との交流は否定しません。スサノオが半島人ですか確固たる状況証拠が無いとおもうですが。

スサノオを祭った八坂神社を建てたのは高麗氏だったと思いますが?高麗氏は自分の祖先だと言う認識で八坂神社を建てたのではないでしょうか。
それからスサノオは半島から木の種を持って日本に来たとか、髭を抜いて蒔いたら木になったとか、木に関連した説話があります。
渡来した目的が木であり、鉄であった蓋然性は高いと思われます。

>> >> 元々出雲には海蛇を神とする土着信仰があったそうです。
>> >> これがスサノオによって滅ぼされるのがヤマタノオロチ伝説の可能性があります。
>> つまり海蛇を祖神とする勢力がスサノオ疎神とする半島系渡来人に滅ぼされさらに近畿天照大神を祖神とする勢力(吉備も加わっているかも)に滅ぼされたとするわけですね

天照大神を祖神とする勢力とスサノオは同系なので滅ぼすところまではいかず、と言うか天照大神側は国つ神に対してもですが主従の契りさえ結べばそれなりの処遇を与えたのではないでしょうか。
天照の優位を認め年貢をだす約束をすれば滅ぼす事はなかった。

>> >> 畿内にも大物主のように蛇を信仰対象にする土着信仰があった可能性があります。
>> 大物主は取り扱いを慎重に。日本神道ではスサノオと大物主は同系列です。スサノオと大物主は国神系で出雲や機内
>> 以外北陸越の国を代表してい可能性があります。

神道の話は良くわかりませんが、新しい神を信奉する半島からの渡来人は一度期に来たのではなく、少なくとも何度か来た筈です。
それがニニギであり、スサノオであり、アマテラスではなかったかと思います。

>> 大物主が天神系に負けたという伝承は出雲畿内勢力に負けたという事実を受けて
>> >> いずれも後に外来の神に主役を取って代わられてしまう訳です。

大物主が滅ぼされたわけではありません。
ニニギやスサノオ、アマテラスとその都度、妥協し生き残る道を選んだのでしょう。

>> ↑この説はダブルカウントしてます。外来の神=出雲にとって畿内勢力という可能性を
>> 御説は知らずに排除しているよう思われます。

神話ですから一件の事件が二度書かれることも、二件の問題が一件として表されている事もあるかと思いますが。
本来は別の神だったのにいつのまにか祭神が変わってしまった神社も多数あるし。

海蛇の土着信仰は滅ぼされ、大国主は主権を譲らされたのです。



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Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月12日(金)15時18分09秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 10月12日(金)13時00分53秒 ]

>> >> 山海経の内容は小さな地図ではなくていくつかの伝聞+地方伝説集めた大きな地図という訳ではなく大きな地理志という最初に現れた書物というわけ。北倭南倭の読み間違いをネタを提供したあの本です。黒歯国裸人国の記述のルーツになった本ですよ。

>> 山海経の事をいっているわけではありませんよ。
>> あれは物の怪のような、珍獣図鑑に近いものでしょう。

ああその認識は改めて方がいいですよ。
少なくとも記紀の神代巻より現実を映している可能性がある。海内北経(山海経中)と朝鮮と燕と倭野位置関係大雑把だが言い当てている
よくよんでみてみてください
荒唐無稽ように見える化け物は漢民族に征服された民族の国などが祭っていた祖神であろうといわれている。
全然鎮守図鑑ではない。
>> そうではなくて、戦争などに使われる地図などを
>> 小さな地図を張り合わせるような作り方で、大きな
>> 地図をつくることも可能ではないかという話です。

勿論街道途切れている同士告ぎ張り合わせられる。その継いだ部分は45度くらいずれるでしょう。列島までいったい何回継いだら、つくれるでしょうか?簡単には倭は大陸の東の海中にあるとしか言えないでしょう。
>> >> ありえません。勿論東渡海の倭種の国が近畿の国に当たるから邪馬台国は九州にあるんだという議論成り立ちません。

>> うーん、それは変ですね。
なんで?
だって邪馬台国は倭国の中としか程度わからないんだもん
半島の東南の方にあるくらいしか言えません。
じゃあ問いただします
>> 東渡海の倭種の国は近畿であるとなぜ言い切れるのでしょうか?
>> 陳寿が、実際よりも大げさに記述したのではないかという
>> ことは、よく言われる話です。
>> 距離もそうなら、国を大きく書くこともあるわけです。
>> 司馬氏の功績を大きなものにすることで、自分の出世の
>> 道をつくったとも言えると思います。

>> 東渡海の倭種の国があると書いていることは、魏に服し
>> ていない国が日本にはまだまだあるということを示し
>> ていますよね。
まあ中華思想の地理観で天円蓋地方大で大地は非常に大きいということを示したかった。だけでしょう。
陳寿の出世云々も憶測というしかない。そんな事は現代人の発想の産物です。陳寿の司馬昭への追従の木簡でも竹箔(字が違うが出てこないや)出てこないとそんな前提なんかうかうかのれません。




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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月12日(金)17時07分02秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月12日(金)15時11分04秒 ]

>> >> 半島から列島に来るには対馬暖流に乗れば出雲に来易いしかし列島から半島へはせめて長門くらいまできて九州まで
>> >> 来ないと風待ちをしなくては半島にもどれません。
>> >> 工人は鉄鉱石にある方に居つくとおもうけど。

>> 日本国内で木と鉄鉱石と需要があれば工人もそれなりの地位待遇が得られたでしょうから日本国内に住みついたでしょう。
>> 出雲に移住してきても問題はないです。
まあ問題はないんですが。そういう可能性否定できません。

>> >> >> >> >> その一族の伝承が新羅から来たスサノオに繋がっているのではないか。との事でした。
>> >> 勿論出雲国風土記にあるような国寄せ神話あるように
>> >> 韓半島北陸との交流は否定しません。スサノオが半島人ですか確固たる状況証拠が無いとおもうですが。
??
>> スサノオを祭った八坂神社を建てたのは高麗氏だったと思いますが?高麗氏は自分の祖先だと言う認識で八坂神社を建てたのではないでしょうか。
高麗氏?誰です?また思いつきで書いていませんか?
高句麗の王族のことですか?
八坂神社は京都にある本社各地にあるのはその分社
創建者は不祥で平安京遷都後で比較的歴史の浅いのが
特徴です。スサノオを牛頭天王と同一視をするということが歴史の浅い証拠牛頭天王というのがなにであるがわかっていらっしゃるのかな?ハンドル名につかわれてるだから
ちゃあんとそこは調べて下さい。
牛頭天王は仏教用語祇園精舎の守護天じゃないですか!!
要する仏教密教系のなだれこんで後、神仏習合の傾向が出てきて平安以降ですまで遡れるのはここまで。とても
邪馬台国時代や倭五王時代には援用するのは不可能。


>> それからスサノオは半島から木の種を持って日本に来たとか、髭を抜いて蒔いたら木になったとか、木に関連した説話があります。
>> 渡来した目的が木であり、鉄であった蓋然性は高いと思われます。
???
>> >> >> 元々出雲には海蛇を神とする土着信仰があったそうです。
出典は?
>> >> >> これがスサノオによって滅ぼされるのがヤマタノオロチ伝説の可能性があります。
>> >> つまり海蛇を祖神とする勢力がスサノオ疎神とする半島系渡来人に滅ぼされさらに近畿天照大神を祖神とする勢力(吉備も加わっているかも)に滅ぼされたとするわけですね

>> 天照大神を祖神とする勢力とスサノオは同系どういうニュアンスで同系という言葉をつかっているんですが?なので滅ぼすところまではいかず、と言うか天照大神側は国つ神に対してもですが主従の契りさえ結べばそれなりの処遇を与えたのではないでしょうか。
主従の契り?それはいつまでも畿内から軍事勢力駐留させられないでしょ出雲地方の支配権を認めて上前をはねればいいので畿内連合に加えたんでしょ。若干出雲が独立性が高いんで神賀詞制度が残ったと考えるべきでしょう。

>> >> >> 畿内にも大物主のように蛇を信仰対象にする土着信仰があった可能性があります。???
、新しい神を信奉する半島からの渡来人は一度期に来たのではなく、少なくとも何度か来た筈です。
そりゃそうです。軍事的卓越した勢力がきたとは思えない
>> それがニニギであり、スサノオであり、アマテラスではなかったかと思います。
なんで?それは騎馬民族征服説の影響ですか?影響下記紀神話の曲解だとおもいますが。

>> >> 大物主が天神系に負けたという伝承は出雲畿内勢力に負けたという事実を受けて
>> >> >> いずれも後に外来の神に主役を取って代わられてしまう訳です。
要する牛頭天王さんは古代史にスペクタクルロマンを求めたいわけですね。なんか学説と呼べるかな???

>> 大物主が滅ぼされたわけではありません。
>> ニニギやスサノオ、アマテラスとその都度、妥協し生き残る道を選んだのでしょう。

>> >> ↑この説はダブルカウントしてます。外来の神=出雲にとって畿内勢力という可能性を
>> >> 御説は知らずに排除しているよう思われます。

>> 神話ですから一件の事件が二度書かれることも、二件の問題が一件として表されている事もあるかと思いますが。
>> 本来は別の神だったのにいつのまにか祭神が変わってしまった神社も多数あるし。

>> 海蛇の土着信仰は滅ぼされ、大国主は主権を譲らされたのです。



65

Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月12日(金)18時45分54秒]

元の発言 [ Re: 話を「方位が測れたか」に戻しましょう。 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月12日(金)15時18分09秒 ]

やっぱり変ですよ。

あなたは、山海経についてのところで

>記紀の神代巻より現実を映している可能性がある
>漢民族に征服された民族の国などが祭っていた祖神であろうといわれている。

といいながら、

>陳寿の出世云々も憶測というしかない。
と、こちらに関しては憶測だと一言で否定される。

片方は可能性を認めながら、もう一方は認めない。
それほどの違いがあるのでしょうか?

邪馬台国の位置についてですが。
>だって邪馬台国は倭国の中としか程度わからないんだもん
>半島の東南の方にあるくらいしか言えません。

これはいいです。
だからと言って、近畿が東渡海の倭種の国ではないという
証明にはなりません。



66

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月12日(金)20時19分26秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月12日(金)17時07分02秒 ]

>> >> スサノオを祭った八坂神社を建てたのは高麗氏だったと思いますが?高麗氏は自分の祖先だと言う認識で八坂神社を建てたのではないでしょうか。
>> 高麗氏?誰です?また思いつきで書いていませんか?
>> 高句麗の王族のことですか?

ちょっと調べれば八坂神社と高麗の関係はすぐにわかると思います。
yahooで検索してみたらどうですか?

>> ちゃあんとそこは調べて下さい。
>> 牛頭天王は仏教用語祇園精舎の守護天じゃないですか!!

京都人にとって八坂神社は祇園さんですね。

>> >> >> >> 元々出雲には海蛇を神とする土着信仰があったそうです。
>> 出典は?

これもyahooで調べれば海蛇が出雲にとって重要な神だった証拠が沢山でてきます。

海蛇といえば海人族の神です。これに対してアマテラス(スサノオ)族は山岳信仰民族。

>> >> 天照大神を祖神とする勢力とスサノオは同系
>> どういうニュアンスで同系という言葉をつかっているんですが?

どちらも外来という意味です。

>> 主従の契り?それはいつまでも畿内から軍事勢力駐留させられないでしょ

畿内説では九州まで軍事支配(伊都国)していたんじゃなかったっけ?

>> なんで?それは騎馬民族征服説の影響ですか?影響下記紀神話の曲解だとおもいますが。

>> 要する牛頭天王さんは古代史にスペクタクルロマンを求めたいわけですね。なんか学説と呼べるかな???

学者で私と同じ説を述べておられる方は知りませんね。従って今のところ学説と言えるほどのものではありません。
そのうち誰か。


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月12日(金)21時46分14秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月12日(金)20時19分26秒 ]

>> >> >> スサノオを祭った八坂神社を建てたのは高麗氏だったと思いますが?高麗氏は自分の祖先だと言う認識で八坂神社を建てたのではないでしょうか。
>> >> 高麗氏?誰です?また思いつきで書いていませんか?
>> >> 高句麗の王族のことですか?

>> ちょっと調べれば八坂神社と高麗の関係はすぐにわかると思います。
>> yahooで検索してみたらどうですか?
sすぐgooで検索しました。高麗氏になんてどこにかいてありましたか高麗の調使で帰化しちゃった男の後裔の伝えられる八坂造の祖神を祭ったとしか書いてありません。
高麗氏なんて氏族は朝鮮半島史にはでてきません。
朝鮮ある牛頭山という命名は朝鮮半島に密教が
入り込んだ後ものでしょう。


>>> >> 牛頭天王は仏教用語祇園精舎の守護天じゃないですか!!

>> 京都人にとって八坂神社は祇園さんですね。
そうです。八坂さんが牛頭天王を介して祗園さんと呼ばれるなんて当然知っておいでと思ったからそうは書かなかったんです。僕も投稿する前一度くらい検索してますよ。
僕はgoo派ですが。

>> >> >> >> >> 元々出雲には海蛇を神とする土着信仰があったそうです。
>> >> 出典は?

>> これもyahooで調べれば海蛇が出雲にとって重要な神だった証拠が沢山でてきます。
検索史ts結果は要するに渦巻文を蛇文とみるかどうか主観の問題とかいてありますね。縄文時代の渦巻き文は普遍的なものです。牛頭さんの論でいくと縄文遺跡あるとそこの土地海蛇を祭る信仰があったとなるでしょう。
>> 海蛇といえば海人族の神です。これに対してアマテラス(スサノオ)族は山岳信仰民族。
これはいいきれるかな?
当然検索する手間惜しみません。素人ページしかひっかけてこないですね。日本神道の歴史書に読めば、山岳特に活火山は次々と記紀の神々が鎮座させられいく歴史がわかるとおもいます。要するに天災の人心安定に聞き神々がその都度鎮座して行くのです。山岳信仰ありきではなく山岳信仰が記紀神話の神々に政治的な配慮から結び付けられて行くのです。以下の本をご参考になってください
「神道の逆襲」
お得意の検索してください、読売新聞の7月頃書評にも取り上げられた良著です。
>> >> >> 天照大神を祖神とする勢力とスサノオは同系
>> >> どういうニュアンスで同系という言葉をつかっているんですが?

>> どちらも外来という意味です。

>> >> 主従の契り?それはいつまでも畿内から軍事勢力駐留させられないでしょ

>> 畿内説では九州まで軍事支配(伊都国)していたんじゃなかったっけ?
そうですよ。邪馬台国時代安定してはいなかった
出雲が降伏する頃畿内勢力巨大安定していたので
出雲地方政権もあるていど認めることは出来たという
僕なりの史観でそう判断しました。

>> >> なんで?それは騎馬民族征服説の影響ですか?影響下記紀神話の曲解だとおもいますが。

>> >> 要する牛頭天王さんは古代史にスペクタクルロマンを求めたいわけですね。なんか学説と呼べるかな???

>> 学者で私と同じ説を述べておられる方は知りませんね。従って今のところ学説と言えるほどのものではありません。
>> そのうち誰か。



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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月13日(土)07時29分13秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月12日(金)21時46分14秒 ]

>> sすぐgooで検索しました。高麗氏になんてどこにかいてありましたか高麗の調使で帰化しちゃった男の後裔の伝えられる八坂造の祖神を祭ったとしか書いてありません。

八坂神社、高麗で検索するとgooだと71件、yahooだと158件引っかかります。
それにyahooは検索する語句の前後の文が表示されるので求める情報が書いてありそうか、わかりやすいですね。

>> 高麗氏なんて氏族は朝鮮半島史にはでてきません。

高句麗、高麗からの帰化人をまとめて高麗氏と表現しました。
八坂神社の社伝によると
「八坂神社は斉明天皇2年(656)高麗(こま)
より来朝せる調進副使の伊利之使主が新羅国牛頭山にます素戔嗚尊(スサノオ
ノミコト)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まる。
  伊利之使主来朝の事、又素戔嗚尊が御子、五十猛(イソタケル)神と共に
新羅国に降り曾尸茂梨(そしもり、楽浪郡牛頭山)に降られた事は日本書紀に
記すところであり、新撰姓氏録に八坂造は狛(こま)国人万留川麻乃意利佐の
子孫なりとある記録と考え合せて、ほぼ妥当な創祀と見てよい。
  尚この八坂の地は、華頂山の麓に位置し、牛頭天皇示現の地と伝える瓜生
石も現存し、又神社の南方に八坂塔で知られる法観寺もあり、この一帯は今も
清水寺、双林、長楽、安養、知恩院等あり、当時霊地として信仰の対象であっ
た事を思えば当社創祀は斉明期以前をも想定しうる。」
とあるそうです。
       
>> >> これもyahooで調べれば海蛇が出雲にとって重要な神だった証拠が沢山でてきます。
>> 検索史ts結果は要するに渦巻文を蛇文とみるかどうか主観の問題とかいてありますね。縄文時代の渦巻き文は普遍的なものです。牛頭さんの論でいくと縄文遺跡あるとそこの土地海蛇を祭る信仰があったとなるでしょう。

出雲大社のホームページの神在月の記述に
「また、この時期は出雲地方では風波の激しい日が続き、亀甲の班紋のある小さな海蛇が藻に乗って、出雲の海岸に寄ってくると言われ、これを見つけた人は曲物(まげもの)に収め、出雲大社に奉納する事が古例になっています。海蛇は「龍蛇神」と呼ばれ、大国主大神の御使いをされる神様として信仰され、神在祭の間、この龍蛇神を特に拝礼する事ができます。」
私はこの記述が元々は出雲の神は「龍蛇神」だったのが大和政権に征服されて大和の神大国神を押し付けられ、神在月の時にしか 拝礼を許されなくなった事を意味しているのではと推測しているのです。

>> >> 海蛇といえば海人族の神です。これに対してアマテラス(スサノオ)族は山岳信仰民族。
>> これはいいきれるかな?
>> 当然検索する手間惜しみません。素人ページしかひっかけてこないですね。日本神道の歴史書に読めば、山岳特に活火山は次々と記紀の神々が鎮座させられいく歴史がわかるとおもいます。要するに天災の人心安定に聞き神々がその都度鎮座して行くのです。山岳信仰ありきではなく山岳信仰が記紀神話の神々に政治的な配慮から結び付けられて行くのです。以下の本をご参考になってください
>> 「神道の逆襲」
>> お得意の検索してください、読売新聞の7月頃書評にも取り上げられた良著です。

なるほど「神様はお客様」ですか。(毎日評を見ました。)
神様は「御もてなしをして帰っていただく存在」なんですね。
よそからきた、即ち外来を表していませんか?
すごくいい情報を提供して下さって有難う御座います。

>> >> 畿内説では九州まで軍事支配(伊都国)していたんじゃなかったっけ?
>> そうですよ。邪馬台国時代安定してはいなかった
>> 出雲が降伏する頃畿内勢力巨大安定していたので
>> 出雲地方政権もあるていど認めることは出来たという
>> 僕なりの史観でそう判断しました。

問題は出雲が降伏したのがいつかですね。
荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡で銅鐸、銅剣が埋められた頃、多分、四隅突出墓を作った一族が古墳時代の初期に祭器である銅鐸、銅剣を埋めさせた。
しかしこれは大和政権ではないと思われます。
畿内では銅鐸は打ち壊されました。四隅突出墓でなく前方後円墳を作っていますから。
しかし似た事をしているので大和政権を作った種族と同類である事は間違いないでしょう。
それが名前はともかくアマテラスとスサノオの差ですね。


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月13日(土)11時08分45秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月13日(土)07時29分13秒 ]

麗、高麗からの帰化人をまとめて高麗氏と表現しました。
あんまり適当な表現ではないですね最初にことわり書きが必要です。
>> 八坂神社の社伝によると
>> 「八坂神社は斉明天皇2年(656)高麗(こま)
>> より来朝せる調進副使の伊利之使主が新羅国牛頭山にます素戔嗚尊(スサノオ
>> ノミコト)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まる。
>>   伊利之使主来朝の事、又素戔嗚尊が御子、五十猛(イソタケル)神と共に
>> 新羅国に降り曾尸茂梨(そしもり、楽浪郡牛頭山)に降られた事は日本書紀に
>> 記すところであり、新撰姓氏録に八坂造は狛(こま)国人万留川麻乃意利佐の
>> 子孫なりとある記録と考え合せて、ほぼ妥当な創祀と見てよい。
基本的社伝というのは後世の宮司達が都合好いように手を加えている可能性がある。という僕のスタンスです。1000%信用しません。新撰姓氏録の方はもう少し信用します。記紀ですら100%信用しない主義です。あれは
政治的な意図があって作成されたとかんがえてます。勿論
多少伝承と真実は含んでいるとおもいます。
>>   尚この八坂の地は、華頂山の麓に位置し、牛頭天皇示現の地と伝える瓜生
>> 石も現存し、又神社の南方に八坂塔で知られる法観寺もあり、この一帯は今も
>> 清水寺、双林、長楽、安養、知恩院等あり、
たしか
僕も好きですか東山一帯散策はいいですね
当時霊地として信仰の対象であっ
>> た事を思えば当社創祀は斉明期以前をも想定しうる。」

>> とあるそうです。
>>
斉明期以前ねーそれ歴史古すぎでしょう。基本的寺社の縁起は格を重く見せたいのでちょっと眉唾。
       
>> >> >> これもyahooで調べれば海蛇が出雲にとって重要な神だった証拠が沢山でてきます。
>> >> 検索史ts結果は要するに渦巻文を蛇文とみるかどうか主観の問題とかいてありますね。縄文時代の渦巻き文は普遍的なものです。牛頭さんの論でいくと縄文遺跡あるとそこの土地海蛇を祭る信仰があったとなるでしょう。

>> 出雲大社のホームページの神在月の記述に
>> 「また、この時期は出雲地方では風波の激しい日が続き、亀甲の班紋のある小さな海蛇が藻に乗って、出雲の海岸に寄ってくると言われ、これを見つけた人は曲物(まげもの)に収め、出雲大社に奉納する事が古例になっています。海蛇は「龍蛇神」と呼ばれ、大国主大神の御使いをされる神様として信仰され、神在祭の間、この龍蛇神を特に拝礼する事ができます。」まあ龍蛇神は東アジア海岸部の共通特徴です。中国の越・徐地方にもある。
夏王朝始祖う←漢字出ないんでこれで許しては半身半鱗で覆われた龍で表現される。参考「古代朝鮮と倭族」鳥越憲三郎
>> 私はこの記述が元々は出雲の神は「龍蛇神」だったのが大和政権に征服されて大和の神大国神を押し付けられ、神在月の時にしか 拝礼を許されなくなった事を意味しているのではと推測しているのです。

なんとも言えませ強く賛同するほど証拠は認められません。

>> >> >> 海蛇といえば海人族の神です。これに対してアマテラス(スサノオ)族は山岳信仰民族。
>> >> これはいいきれるかな?
>> >> 当然検索する手間惜しみません。素人ページしかひっかけてこないですね。日本神道の歴史書に読めば、山岳特に活火山は次々と記紀の神々が鎮座させられいく歴史がわかるとおもいます。要するに天災の人心安定に聞き神々がその都度鎮座して行くのです。山岳信仰ありきではなく山岳信仰が記紀神話の神々に政治的な配慮から結び付けられて行くのです。以下の本をご参考になってください
>> >> 「神道の逆襲」
>> >> お得意の検索してください、読売新聞の7月頃書評にも取り上げられた良著です。

>> なるほど「神様はお客様」ですか。(毎日評を見ました。)
>> 神様は「御もてなしをして帰っていただく存在」なんですね。
>> よそからきた、即ち外来を表していませんか?
よそ=半島とはかぎりませんよ
>> すごくいい情報を提供して下さって有難う御座います。

>> >> >> 畿内説では九州まで軍事支配(伊都国)していたんじゃなかったっけ?
>> >> そうですよ。邪馬台国時代安定してはいなかった
>> >> 出雲が降伏する頃畿内勢力巨大安定していたので
>> >> 出雲地方政権もあるていど認めることは出来たという
>> >> 僕なりの史観でそう判断しました。

>> 問題は出雲が降伏したのがいつかですね。


>> 荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡で銅鐸、銅剣が埋められた頃、多分、四隅突出墓を作った一族が古墳時代の初期に祭器である銅鐸、銅剣を埋めさせた。

四隅突出墓を造ったのは大国主の一族の祖先でしょう邪馬台国時代近辺とみます。出雲に前方後円墳が入り始めたこれが記紀国譲り神話相当する記紀景行紀に対応する。

>>これは大和政権ではないと思われます。
そうでしょう

>> 畿内では銅鐸は打ち壊されました。左記の出来事の大和政権の出雲侵入とは別次元の話かも。

>> しかし似た事をしているので>> それが名前はともかくアマテラスとスサノオの差ですね。名前は留保です




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Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月13日(土)19時40分00秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月7日(日)04時29分55秒 ]


>>
>>
#色素を失うのは簡単だけど、獲得するのはそれほど簡単ではない、ということでしょう。だから、

>>
>>
>>
#混血(と淘汰)だと考えるべきでしょう。

>> 私は、南回りの人々と別れた後、西(白人)と東へ分かれたと考えるほうが合理的だと思います。
>>
>>
・・・
>>
>>
#これは誤りではありませんか。
手元の本に載っている、細胞核DNAのある部位の解析結果は、以下のようになっていました。
・まず、a[アフリカ人]とb[それ以外]が分かれる
・bは、c[ニューギニア人、オーストラリア人、東南アジア人、太平洋諸島民]と
    d[ヨーロッパ人、東北アジア人、エスキモー、アメリンド]に分かれる
・さらにdはe[ヨーロッパ人]とf[それ以外]に分かれる etc・・・

これは、「東南アジア人、太平洋諸島民」を除けば私が前回提案した分岐案を支持しています。
ところで、この「東南アジア人」がどんな人々を意味するか不明ですが、まさかタイ・マレー・ベトナム等の、日本人にかなり似た人々がヨーロッパ人より遠い親戚のはずがありませんから、普通の意味の東南アジア人と理解する限りは、この分析が誤っていることは明白です。東南アジアは南回りの人々と北回りの人々が出会った場所ですから、当然混血が行われており、多分、インドネシアあたりでは南回りの人々の遺伝子が濃く分布していると考えられます。南回りの血を引く人に東南アジア人を代表させた結果だと考えれば、納得がいきます。
EK進化モデルを意識して検体のグループ分けをしたら、南回りの人々と北回りがはっきり分かれるでしょう。

#ほんの10年前までは、世の中全体がなんとなく多地域進化説でした。多地域進化説は究極の南回り説ですから、これを引きずっている限り、モンゴロイドの「故地」は東アジアになります。しかし、本来なら、単一進化説を受け入れると同時に、南回り説もチャラにして、モンゴロイドの来た道筋をゼロから考え直す作業を意識的に行う必要があったのです。そうすれば、北回り説のほうが合理的であることが直ちに理解できたでしょう。>自分




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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月13日(土)21時08分23秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月13日(土)11時08分45秒 ]

>> 基本的社伝というのは後世の宮司達が都合好いように手を加えている可能性がある。という僕のスタンスです。1000%信用しません。新撰姓氏録の方はもう少し信用します。記紀ですら100%信用しない主義です。あれは
>> 政治的な意図があって作成されたとかんがえてます。勿論
>> 多少伝承と真実は含んでいるとおもいます。

私は高麗人、またはその帰化人と言われる人が八坂神社を作ったと言われている事を証明したかっただけです。
高麗人、またはその後裔がスサノオを祭ると言うのはスサノオが高麗人の祖先だと認識していた可能性があるわけです。
外来神では無いかと疑う理由はここにあります。

しかし司馬遼太郎が「鉄と古代 砂鉄のみち」で言っているにはスサノオの故郷は新羅であって高句麗、高麗ではありません。
(私は司馬遼太郎の推測より八坂神社の社伝の示唆する所の方が正しいと思っています。)

>> まあ龍蛇神は東アジア海岸部の共通特徴です。中国の越・徐地方にもある。

>> >> >> >> 海蛇といえば海人族の神です。これに対してアマテラス(スサノオ)族は山岳信仰民族。
>> >> >> これはいいきれるかな?

>> >> >> 日本神道の歴史書に読めば、山岳特に活火山は次々と記紀の神々が鎮座させられいく歴史がわかるとおもいます。要するに天災の人心安定に聞き神々がその都度鎮座して行くのです。山岳信仰ありきではなく山岳信仰が記紀神話の神々に政治的な配慮から結び付けられて行くのです。

縄文の神などはアマゾンに住むインディオの精霊信仰のようなものだったと推測します。
弥生時代は司馬叡 さんのおっしゃるような東アジア海岸部から来た龍蛇神や半島南部からきた占いのような信仰などが入り混じっていたのではないか。
そこへ新たな神を持った別の種族がやってきて自分達の神を拝むように指示した。
倭人の信仰を完全廃棄はさせなくても征服者は自分達の神を上位に置くように命令した。
古い信仰の祭器は壊して埋めさせた。
と解釈すれば銅鐸の廃棄はうまく理解できます。

>> >> なるほど「神様はお客様」ですか。(毎日評を見ました。)
>> >> 神様は「御もてなしをして帰っていただく存在」なんですね。
>> >> よそからきた、即ち外来を表していませんか?
>> よそ=半島とはかぎりませんよ

ま、半島が一番理解しやすいですが。

>> 四隅突出墓を造ったのは大国主の一族の祖先でしょう邪馬台国時代近辺とみます。出雲に前方後円墳が入り始めたこれが記紀国譲り神話相当する記紀景行紀に対応する。

私もここは同じ考えです。

>> >> 畿内では銅鐸は打ち壊されました。左記の出来事の大和政権の出雲侵入とは別次元の話かも。

全くその通りです。大和政権の出雲侵入は三世紀ではなく四世紀もかなり後になってからです。

なんか意見があってますね。


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月13日(土)22時02分57秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月13日(土)21時08分23秒 ]


>> しかし司馬遼太郎が「鉄と古代 砂鉄のみち」で言っているにはスサノオの故郷は新羅であって高句麗、高麗ではありません。
>> (私は司馬遼太郎の推測より八坂神社の社伝の示唆する所の方が正しいと思っています。)
なんともいえません。

>> >> まあ龍蛇神は東アジア海岸部の共通特徴です。中国の越・徐地方にもある。

>


>> 弥生時代は司馬叡 さんのおっしゃるような東アジア海岸部から来た龍蛇神や半島南部からきた占いのような信仰などが入り混じっていたのではないか。
>> そこへ新たな神を持った別の種族がやってきて自分達の神を拝むように指示した。
>> 倭人の信仰を完全廃棄はさせなくても征服者は自分達の神を上位に置くように命令した。
>> 古い信仰の祭器は壊して埋めさせた。
ここは埋められたという状態で発見されるのでわかりますが。本当壊したんでしょうか?長年土中のため腐食による可能性はかんがえられませんか?
>> と解釈すれば銅鐸の廃棄はうまく理解できます。
つまり銅鐸は廃棄されたのではない。
銅鐸は埋葬されるべき祭器なんで埋められた状態で発見されるのだと考える。
中国の長江中流域春秋時代で対応する楚でよく発見される埋められた状態で胴鼓という祭器があります。
これはどうも銅鐸おなじような使われたではないか。
稲作文化を共通とし、多分秋冬の時期に埋め来年の春に掘り出すという豊作祈願祭礼ではなかったか。(「中国の神話」白川静から引用)
長江から楚呉越から徐斉から半島南半分から列島まで
共通文化を素地とする稲作と主とする文化圏。
あったのではないか
中国では南方勢力は結局北西勢力殷周に負けた
戦国時代が大動乱を経てが
秦漢が統一半島にも衛氏朝鮮がっできたその影響が列島に波及しそんでもって漢書「楽浪海中に倭人有り」と
中国人にとって日本海洋民族っぽい捕らえ方されている。
まだこの時点は日本は銅鐸の時代です。以降、九州北部畿内勢力がそれぞれまとまってきた。
そこで後漢が衰退期に入ると半島列島でも勢力同士政治的連合を作り始める。三国時代に入ると列島では
九州北部と吉備畿内勢力がひとつまとまってきた。
この時点は出雲まだかやの外です。
こんなところが東アジアのおおまか流れ僕の考えです
はまとまってきた

>> ま、半島が一番理解しやすいですが。

>> >> 四隅突出墓を造ったのは大国主の一族の祖先でしょう邪馬台国時代近辺とみます。出雲に前方後円墳が入り始めたこれが記紀国譲り神話相当する記紀景行紀に対応する。
>> 私もここは同じ考えです。
>> >> >> 畿内では銅鐸は打ち壊されました。左記の出来事の大和政権の出雲侵入とは別次元の話かも。

銅鐸は別次元とおもいます。
>> 全くその通りです。大和政権の出雲侵入は三世紀ではなく四世紀もかなり後になってからです。

>> なんか意見があってますね。
まあこのあたり共通認識なっていますね。



73

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月13日(土)23時23分19秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月12日(金)15時11分04秒 ]

>> それからスサノオは半島から木の種を持って日本に来たとか、髭を抜いて蒔いたら木になったとか、木に関連した説話があります。
>> 渡来した目的が木であり、鉄であった蓋然性は高いと思われます。

この件,今回は一応,記紀の線で押さえておくと・・・

日本書紀では,
スサノヲと子のイタケルとが韓国に樹種を持って下ったが,
韓国では植えずに持ち帰り,
オホヤツヒメ・ツマツヒメともども,
大八島国で播殖した,という表現です。

また,木といっても,船材を採るのが主目的のようです。他に,宮材,棺材,など。

また,彼の地で,
日本から渡来したスサノヲを祀ったことがあるかもしれないので,
即断はできません。

 # 国家造立神勧請については,欽明紀十六年二月参照。


斉明二年というと,かの飛鳥岡本宮を建て,
「狂心の渠」と「石の山丘」を造った年です。

その元年,小墾田の宮闕を造ろうとしたが,
「宮殿に造らむとする材,朽ち爛れる者多し」とありますから,
これが韓国にあったスサノヲ(の分霊)を祀ることになった
呪術的事情ではなかろうか,とか。

ちなみに,元年には,飛鳥板葺宮に火災。
このため,翌年に,水の都でも造ったんでしょう,,,(^^; 
石を運ぶのに二百隻の舟を使った,というのも,
あるいは,スサノヲと絡むでしょうか。
 

スサノヲが日本に戻る時に,埴土の船を作ったとあるが,これは舟形埴輪のことだろうか,とか・・・

ある研究者によると,弥生の水田遺跡の周囲には,
必ず植林の形跡があって,
スサノヲ伝承を想起させるそうです。


--


74

Re: 大論争10月号を開始します。

投稿者[ 田中 英介 ] 発言日時 [10月14日(日)01時31分27秒]

元の発言 [ 大論争10月号を開始します。 ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 10月1日(月)00時50分34秒 ]

>> みなさんの活発な議論を期待いたします。

ニサンザイ古墳てどんな古墳?



75

Re: 大論争10月号を開始します。

投稿者[ 耶律阿保機 ] 発言日時 [10月14日(日)01時33分57秒]

元の発言 [ Re: 大論争10月号を開始します。 ] お名前 [ 田中 英介 ] 日付 [ 10月14日(日)01時31分27秒 ]

>> >> みなさんの活発な議論を期待いたします。

>> ニサンザイ古墳てどんな古墳?



76

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月14日(日)07時40分11秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月13日(土)22時02分57秒 ]

>> >> 古い信仰の祭器は壊して埋めさせた。
>> ここは埋められたという状態で発見されるのでわかりますが。本当壊したんでしょうか?長年土中のため腐食による可能性はかんがえられませんか?

畿内で発見された銅鐸の多くは人為的に割ったり穴をあけたりした形跡があるといわれています。
出雲の銅鐸は壊されもせず整然と並べて埋めてあったそうですが。

>> >> と解釈すれば銅鐸の廃棄はうまく理解できます。
>> つまり銅鐸は廃棄されたのではない。
>> 銅鐸は埋葬されるべき祭器なんで埋められた状態で発見されるのだと考える。
>> 中国の長江中流域春秋時代で対応する楚でよく発見される埋められた状態で胴鼓という祭器があります。
>> これはどうも銅鐸おなじような使われたではないか。
>> 稲作文化を共通とし、多分秋冬の時期に埋め来年の春に掘り出すという豊作祈願祭礼ではなかったか。(「中国の神話」白川静から引用)

出雲においては司馬叡さんの解釈も可能だと思いますが畿内では壊されている。
その後日本から銅鐸が姿を消してしまったことをどう解釈されますか?

>> 長江から楚呉越から徐斉から半島南半分から列島まで
>> 共通文化を素地とする稲作と主とする文化圏。
>> あったのではないか
>> 中国では南方勢力は結局北西勢力殷周に負けた
>> 戦国時代が大動乱を経てが
>> 秦漢が統一半島にも衛氏朝鮮がっできたその影響が列島に波及しそんでもって漢書「楽浪海中に倭人有り」と
>> 中国人にとって日本海洋民族っぽい捕らえ方されている。
>> まだこの時点は日本は銅鐸の時代です。以降、九州北部畿内勢力がそれぞれまとまってきた。

銅鐸そのものの起源は半島です。
半島で家畜の首につけていたカウベルのような小型の銅鐸だったのが、日本では牛も飼われていなかったので単なる装飾品から次第に大きくなって宗教行事の祭器として使用されるようになったと解釈されます。

>> 三国時代に入ると列島では
>> 九州北部と吉備畿内勢力がひとつまとまってきた。
>> この時点は出雲まだかやの外です。

出雲では銅鐸と銅剣が共存していたと言う事はどのように解釈すればいいのでしょう。

>> >> 全くその通りです。大和政権の出雲侵入は三世紀ではなく四世紀もかなり後になってからです。

>> >> なんか意見があってますね。
>> まあこのあたり共通認識なっていますね。



77

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月14日(日)09時40分59秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月13日(土)23時23分19秒 ]

>> 日本書紀では,
>> スサノヲと子のイタケルとが韓国に樹種を持って下ったが,
>> 韓国では植えずに持ち帰り,
>> オホヤツヒメ・ツマツヒメともども,
>> 大八島国で播殖した,という表現です。

スサノオは何処から種を持ってきたのでしょうか?

>> また,木といっても,船材を採るのが主目的のようです。他に,宮材,棺材,など。

日本にわざわざ高野槇や杉や檜を持ってこなくても自生していたでしょうに。

>> また,彼の地で,
>> 日本から渡来したスサノヲを祀ったことがあるかもしれないので,
>> 即断はできません。

高天原は日本にあったのでしょうか?
山岳信仰とのからみで白山信仰なんか北朝鮮の白頭山信仰と関係しそう。

>>  # 国家造立神勧請については,欽明紀十六年二月参照。

>>
>> 斉明二年というと,かの飛鳥岡本宮を建て,
>> 「狂心の渠」と「石の山丘」を造った年です。
>> その元年,小墾田の宮闕を造ろうとしたが,
>> 「宮殿に造らむとする材,朽ち爛れる者多し」とありますから,
>> これが韓国にあったスサノヲ(の分霊)を祀ることになった
>> 呪術的事情ではなかろうか,とか。

スサノオの分霊が韓国で祭られていたということは確実なんでしょうか?

>> ちなみに,元年には,飛鳥板葺宮に火災。
>> このため,翌年に,水の都でも造ったんでしょう,,,(^^; 
>> 石を運ぶのに二百隻の舟を使った,というのも,
>> あるいは,スサノヲと絡むでしょうか。
>>  
>> スサノヲが日本に戻る時に,埴土の船を作ったとあるが,これは舟形埴輪のことだろうか,とか・・・

舟形埴輪出現は古墳時代も中期になってからじゃ?

>> ある研究者によると,弥生の水田遺跡の周囲には,
>> 必ず植林の形跡があって,
>> スサノヲ伝承を想起させるそうです。



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銅鐸の扱われ方

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月14日(日)14時33分14秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月14日(日)07時40分11秒 ]

>> 畿内で発見された銅鐸の多くは人為的に割ったり穴をあけたりした形跡があるといわれています。
穴は中鋳型外鋳型との連結痕ではないですか?鋳込みの失敗でも割れる銅鐸もあるし
>> 出雲の銅鐸は壊されもせず整然と並べて埋めてあったそうですが。
出雲岩倉遺跡ヤ神庭荒神谷では埋納されてあった。つまり豊作祈願祭礼かもしれない


>> >> つまり銅鐸は廃棄されたのではない。
>> >> 銅鐸は埋葬されるべき祭器なんで埋められた状態で発見されるのだと考える。
>> >> 中国の長江中流域春秋時代で対応する楚でよく発見される埋められた状態で胴鼓という祭器があります。
>> >> これはどうも銅鐸おなじような使われたではないか。
>> >> 稲作文化を共通とし、多分秋冬の時期に埋め来年の春に掘り出すという豊作祈願祭礼ではなかったか。(「中国の神話」白川静から引用)

>> 出雲においては司馬叡さんの解釈も可能だと思いますが畿内では壊されている。
ここが問題です。
壊されてる遺跡はどこですか壊されている銅鐸にT式U式V式の銅鐸ですか?もし外来征服してきた氏族が壊したのだったらTUVWX式のなかに偏りがあるはずです。攻めてきた時に流行?流通している銅鐸を選択的に壊している筈です。
>> その後日本から銅鐸が姿を消してしまったことをどう解釈されますか?
やはり外来文明の移入がかんがえられます。勿論外来氏族の侵入の可能性は否定しません。

>> >> 長江から楚越から徐斉から半島南半分から列島まで
>> >> 共通文化を素地とする稲作と主とする文化圏。
>> >> あったのではないか
>> >> 中国では南方勢力は結局北西勢力殷周に負けた
>> >> 戦国時代が大動乱を経てが
>> >> 秦漢が統一半島にも衛氏朝鮮がっできたその影響が列島に波及しそんでもって漢書「楽浪海中に倭人有り」と
>> >> 中国人にとって日本海洋民族っぽい捕らえ方されている。
>> >> まだこの時点は日本は銅鐸の時代です。以降、九州北部畿内勢力がそれぞれまとまってきた。

>> 銅鐸そのものの起源は半島です。
これは定説でしょうか?
朝鮮半島式小銅鐸のことをおしゃっているのでしょう。
>> 半島で家畜の首につけていたカウベルのような小型の銅鐸だったのが、日本では牛も飼われていなかったので
牛のカウベルそんなものが銅鐸の祖形じゃないですよ
ちょっと手元に資料にないので、古代中国の楽器吊るして叩いて鳴らすやつあれが銅鐸のルーツにふさわしい。
初期の銅鐸は摩滅痕賀あったはず。楽器だった。から次第に大きくなって宗教行事の祭器として使用されるようになったと解釈されます。終わりの1行はその通りです。
古代史の好きな人の当然の常識です。


>> 出雲では銅鐸と銅剣が共存していたと言う事はどのように解釈すればいいのでしょう。銅剣も埋納されるべき祭器
との認識があったのでしょう。

>> >> >> 全くその通りです。大和政権の出雲侵入は三世紀ではなく四世紀もかなり後になってからです。

>> >> >> なんか意見があってますね。
>> >> まあこのあたり共通認識なっていますね。



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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月14日(日)18時45分36秒]

元の発言 [ 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月14日(日)14時33分14秒 ]

>> ちょっと手元に資料にないので、古代中国の楽器吊るして叩いて鳴らすやつあれが銅鐸のルーツにふさわしい。
>> 初期の銅鐸は摩滅痕賀あったはず。楽器だった。から次第に大きくなって宗教行事の祭器として使用されるようになったと解釈されます。終わりの1行はその通りです。
>> 古代史の好きな人の当然の常識です。
 吊るして叩いて鳴らすのなら外側に摩滅痕があるはずですよ。
 九州で発見された銅鐸には、内側に摩滅痕があり、舌も出土している。


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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月14日(日)19時07分10秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月14日(日)18時45分36秒 ]

>> >> ちょっと手元に資料にないので、古代中国の楽器吊るして叩いて鳴らすやつあれが銅鐸のルーツにふさわしい。
>> >> 初期の銅鐸は摩滅痕賀あったはず。楽器だった。から次第に大きくなって宗教行事の祭器として使用されるようになったと解釈されます。終わりの1行はその通りです。
>> >> 古代史の好きな人の当然の常識です。
>>  吊るして叩いて鳴らすのなら外側に摩滅痕があるはずですよ。
まさしくその通りたしかに大型ないわゆる
「見る銅鐸」に外側に摩滅痕はあるものはないようですね。
>>  九州で発見された銅鐸には、内側に摩滅痕があり、舌も出土している。
たしかに舌がゆれて音をだしたのでしょう
九州出土のその内側に摩滅痕のある銅鐸というのはどのくらい大きさでどこで出土のもの御存知でしたら是非教えてください。



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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月14日(日)19時46分19秒]

元の発言 [ 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月14日(日)14時33分14秒 ]

>> >> 銅鐸そのものの起源は半島です。
>> これは定説でしょうか?
>> 朝鮮半島式小銅鐸のことをおしゃっているのでしょう。
>> >> 半島で家畜の首につけていたカウベルのような小型の銅鐸だったのが、日本では牛も飼われていなかったので
>> 牛のカウベルそんなものが銅鐸の祖形じゃないですよ
>> ちょっと手元に資料にないので、古代中国の楽器吊るして叩いて鳴らすやつあれが銅鐸のルーツにふさわしい。

中国で発見されている物といえば青銅製ではなく、土器にそれらしき物があったと聞いた事があります。
これが半島では青銅になり、九州では鐘として使われたが大流行するには至らず消滅。
畿内に伝播すると大型化して祭器になり大流行した。
というのが経緯でしょう。

>> 初期の銅鐸は摩滅痕賀あったはず。楽器だった。から次第に大きくなって宗教行事の祭器として使用されるようになったと解釈されます。終わりの1行はその通りです。

初期小型銅鐸は内側の凸部に磨耗痕があり、舌(ぜつ)と呼ばれる金具も同時に発見された事もあるらしいです。
叩いて音を出した訳ではなく、振って中の舌で音を出すとなると楽器と言うより神社にお参りする時の鈴くらいにしか使えなかったと思われます。
ただ吊るした形跡は見られないので手に持って振ったのでしょう。

>> 古代史の好きな人の当然の常識です。

スイスを旅行した時、牛の首につけられたカウベルは初期小銅鐸と同じ大きさでしたよ。
ガランガランと結構大きな音がでる。このカウベルで飼い主の判別をするそうな。

>> >> 出雲では銅鐸と銅剣が共存していたと言う事はどのように解釈すればいいのでしょう。
>> 銅剣も埋納されるべき祭器との認識があったのでしょう。

いや昔、銅鐸文化圏と銅矛文化圏に別れているとか、文化圏の対立があったかのような話があったと思いますが、出雲だけが両方並存出来た理由は何だろうと言う事です。


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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月14日(日)21時30分26秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月14日(日)09時40分59秒 ]


>> スサノオは何処から種を持ってきたのでしょうか?


紀からは,出雲産の木種と考えても変ではありません。

乱開発,乱伐,焼畑,火山の噴火,異常気象,
樹木の寿命などにより,林野が荒れていたか,

平野部の樹木のない地帯に人工の林野や,
いわゆる「鎮守の杜」みたいなのを造営したか・・・。

# 万葉集かなにかに情景描写があったはずなので探してます。


縄文時代の神話か,という説まであります,,,(^^;

>> スサノオの分霊が韓国で祭られていたということは確実なんでしょうか?


断定はできないが,推理は可能,という意味です。

伊利之なる人物が帰化するにあたり,新羅と縁のあるスサノヲを祀る,
というのは興味深いことですが,
「倭人は前2世紀から半島で継続的に活動していた」
という説と考え合わせると,
「スサノヲが外人として半島から日本に来た」
と考えるだけではスッキリしません。

日本と韓国の間に,植林技術をめぐる交流はあったかもしれませんね。
韓国での植林に難点があるのなら,
日本から行った技術者が植林を諦めたことがある,
という線でも推理できるでしょう。


韓伝魏略に出てくる「漢人戸来」の集団は材木関連みたいです。

>> 舟形埴輪出現は古墳時代も中期になってからじゃ?


神話には,位相の前後した面があるかもしれないので,読み方次第でしょう。

埴輪の元は,出雲系の野見宿祢と土部ですから,
出雲を鍵として関連があるだろうか,と。

出雲と大和政権との関連,という視点からは,
崇神紀に造船発令の記事,垂仁紀に埴輪の記事など,
背景を推理するための材料は多いです。




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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月14日(日)21時40分46秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月14日(日)19時07分10秒 ]

>> 九州出土のその内側に摩滅痕のある銅鐸というのはどのくらい大きさでどこで出土のもの御存知でしたら是非教えてください。
 一番有名なのは、吉野ヶ里出土の福田型25.5センチ。ついでに、出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)です。
 前原市の「浦志遺跡」出土のものは吊り下げる穴も残っています。福岡市の「雀居遺跡」から出土した“馬鐸”にも有ったんだっけ。
 舌は「東奈良遺跡」出土の銅鐸にもありますでしょう。
 牛がいないから云々は関係なく、元々は中国、半島でのカウベルだったでしょう。
  「四葉座金具」も本来は棺桶の釘飾りだけど、北部九州は甕棺葬だったから副葬品にされてます。



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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月15日(月)06時39分43秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月14日(日)21時30分26秒 ]

昨夜ISP不調で投稿出来なかった。(TT)

>> >> スサノオは何処から種を持ってきたのでしょうか?

>> 紀からは,出雲産の木種と考えても変ではありません。
>> 乱開発,乱伐,焼畑,火山の噴火,異常気象,
>> 樹木の寿命などにより,林野が荒れていたか,
>> 平野部の樹木のない地帯に人工の林野や,
>> いわゆる「鎮守の杜」みたいなのを造営したか・・・。

スサノオは新羅に蒔こうとして種を持っていったのに蒔かずに日本で蒔いた訳ですよね。日本の種を日本で蒔いた。やや矛盾があるような。

>> # 万葉集かなにかに情景描写があったはずなので探してます。

よろしくお願いします。

>> 縄文時代の神話か,という説まであります,,,(^^;

神話といっても古い時代を反映したものは多くなく、5,6世紀の話が多いような気がします。

>> >> スサノオの分霊が韓国で祭られていたということは確実なんでしょうか?

>> 断定はできないが,推理は可能,という意味です。

>> 伊利之なる人物が帰化するにあたり,新羅と縁のあるスサノヲを祀る,
>> というのは興味深いことですが,
>> 「倭人は前2世紀から半島で継続的に活動していた」
>> という説と考え合わせると,
>> 「スサノヲが外人として半島から日本に来た」
>> と考えるだけではスッキリしません。

伊利之は高麗人です。
スサノオの生まれた高天原は高句麗で、追放されて新羅に降り、新羅から出雲に来たと考えればスッキリします。

>> 日本と韓国の間に,植林技術をめぐる交流はあったかもしれませんね。
>> 韓国での植林に難点があるのなら,
>> 日本から行った技術者が植林を諦めたことがある,
>> という線でも推理できるでしょう。

なるほど、それは一理ありかな?日本の植林技術は半島では通用しなかったと言う訳ですね。
しかし弥生時代に本当に植林なんかしたんでしょうか。
吉野山や熊野を背景にした畿内人が人口の少ない弥生時代に。
鉄の生産をしていた古墳時代の出雲においては必要だったかも知れませんが。
やはりスサノオはかなり時代が下がった5世紀位の話のような気がします。

>> 韓伝魏略に出てくる「漢人戸来」の集団は材木関連みたいです。

色々憶測できそうな集団ですね。

>> >> 舟形埴輪出現は古墳時代も中期になってからじゃ?
>>
>> 神話には,位相の前後した面があるかもしれないので,読み方次第でしょう。

神話の部分以外でも応神天皇以前の部分はかなり前後が怪しいのではないかと思います。

>> 埴輪の元は,出雲系の野見宿祢と土部ですから,
>> 出雲を鍵として関連があるだろうか,と。

>> 出雲と大和政権との関連,という視点からは,
>> 崇神紀に造船発令の記事,垂仁紀に埴輪の記事など,
>> 背景を推理するための材料は多いです。

畿内説は畿内説なりに、九州説は九州説なりに。


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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月15日(月)10時01分31秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月14日(日)21時40分46秒 ]

>> >> 九州出土のその内側に摩滅痕のある銅鐸というのはどのくらい大きさでどこで出土のもの御存知でしたら是非教えてください。
どうもいろいろありがとうございます。ついでに銅鐸に
関する本で良著お勧めものがありますか?手元にあるのは
国立歴博の佐原真館長監修の「銅鐸の絵を読み解く」で
興味深い本なんですが、主眼が図柄の解析にかたよって
いるので摩滅痕云々というような事は書いていないので。
>>  一番有名なのは、吉野ヶ里出土の福田型25.5センチ。ついでに、出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)です。
>>  前原市の「浦志遺跡」出土のものは吊り下げる穴も残っています。福岡市の「雀居遺跡」から出土した“馬鐸”にも有ったんだっけ。
>>  舌は「東奈良遺跡」出土の銅鐸にもありますでしょう。
東奈良の銅鐸はあんまり大きくないのではないのですか?初期のものだと納得がいく。
>>  牛がいないから云々は関係なく、元々は中国、半島でのカウベルだったでしょう。
どうもカウベルの言葉は牛の首に下がっているイメージりですが要するに、吊り下げて舌を内面に当てて音を鳴らすということですね。
>>   「四葉座金具」も本来は棺桶の釘飾りだけど、北部九州は甕棺葬だったから副葬品にされてます。
つまり銅鐸は九州出雲ではオリジナルに近い使われ方していたということですかね。
東奈良の銅鐸を除く畿内の大型銅鐸は本来の使われ方とは
ひょっとする埋納されるべきあるいはどこかに置いて見るための祭器になった四葉座金具のように、可能性もある。
ということかな?九州出雲の方が半島に近い分だけ、
銅鐸の扱われ方はオリジナルに近い。
要するに単純な銅鐸文化圏(畿内)銅剣文化圏(九州)
両方接点(出雲神庭荒神谷)
2分法による理解のしかた間違っているんですかね。
どう考えられるますか?


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Re: 埴原和郎の「人類の進化 」

投稿者[ EK ] 発言日時 [10月15日(月)19時48分45秒]

元の発言 [ Re: 埴原和郎の「人類の進化 」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月15日(月)18時31分26秒 ]

>>
>>
>>
#モンゴロイドはさておき、コーカソイドのように色素タンパク質を作り出す遺伝子を失ってしまったグループがこれをまた発明しなおすのは、簡単なわけない、です。

>>
>>
>>
>>
>>
#いえ、数百年で死に絶えます。

>>
>>
#どこがうぞーなのか分かりかねます。
#よく読んだら「Y染色体上の・・・」って書いてあったんで、アダムの系譜です。

>>
>>
>>
>>
#あの〜、北回りだの寒冷地適応だのは、遅く見ても3万年前、東南アジア系うんぬんは、早く見ても2万年前、でしょう? 縄文人や弥生人が南からやってきても別にかまいません。シベリアから南に進出して、人口を増やし、文化を発展させる十分な時間がありました。




88

Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月15日(月)20時25分39秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月15日(月)10時01分31秒 ]

>> >>  一番有名なのは、吉野ヶ里出土の福田型25.5センチ。ついでに、出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)です。

この位大きいともう実用品では無くなっていたでしょうね。
大と小の境目は凡そ20cmだそうです。
どうも日本製は紐を通して使った形跡が見られなかったので(磨耗がない)手で振って音を出したと思われます。
30cm、40cmでは手で振るのは大変。

>> 東奈良の銅鐸はあんまり大きくないのではないのですか?初期のものだと納得がいく。

14,5CMくらいだったような。これも内側に磨耗痕と舌が見つかっている筈です。

>> どうもカウベルの言葉は牛の首に下がっているイメージりですが要するに、吊り下げて舌を内面に当てて音を鳴らすということですね。

半島ではカウベルの言葉のイメージ通りの使われ方をしていたと思いますよ。
装飾も殆んどありませんし。

>> >>   「四葉座金具」も本来は棺桶の釘飾りだけど、北部九州は甕棺葬だったから副葬品にされてます。

>> つまり銅鐸は九州出雲ではオリジナルに近い使われ方していたということですかね。

大型の家畜はなかったのでオリジナルに近い使われ方はしていません。
ただ本来の使われ方については熟知していたでしょう。
畿内の方は鐸がカウベルという事を知らなかった。

>> 東奈良の銅鐸を除く畿内の大型銅鐸は本来の使われ方とは
>> ひょっとする埋納されるべきあるいはどこかに置いて見るための祭器になった四葉座金具のように、可能性もある。

そのとおりでしょう。

>> 要するに単純な銅鐸文化圏(畿内)銅剣文化圏(九州)
>> 両方接点(出雲神庭荒神谷)
>> 2分法による理解のしかた間違っているんですかね。
>> どう考えられるますか?

「出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)」と言う事は、九州の工人が出雲に渡り、出雲で銅鐸や銅剣を作っていたと考えるのが自然で文化圏の対立は無かった。
畿内だけが特殊だったことになります。

おそらく畿内では銅鐸に霊魂が宿る、銅鐸そのものが信仰の対象のような物に変質したのではないか。
そのため巨大化した。
外来の古墳時代をもたらした異民族はこれが許容できなくて打ち壊した。
出雲は銅鐸が単なる祭器だったので壊される事は無かった。


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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月15日(月)21時18分54秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月15日(月)20時25分39秒 ]

牛頭天王さん、司馬叡さん、こんばんは。

>>銅鐸に関する本で良著お勧めものがありますか?
 奴国在住の私は銅鐸に関する著書は持っていません。m(__)m

>> >> >>  一番有名なのは、吉野ヶ里出土の福田型25.5センチ。ついでに、出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)です。
>> この位大きいともう実用品では無くなっていたでしょうね。
>> 大と小の境目は凡そ20cmだそうです。
>> どうも日本製は紐を通して使った形跡が見られなかったので(磨耗がない)手で振って音を出したと思われます。
>> 30cm、40cmでは手で振るのは大変。
 テレビ朝日(ニュースステーション)で鳴らしてましたヨ、確かぶら下げて。

>> >> 東奈良の銅鐸はあんまり大きくないのではないのですか?初期のものだと納得がいく。
>> 14,5CMくらいだったような。これも内側に磨耗痕と舌が見つかっている筈です。
 高さ14.2センチ、最大幅9.1センチ、重さ七百五十グラムで、日本最古の“日朝混血”銅鐸と言われています。
 佐原真氏は「後の銅鐸の規格から外れており、極初期の試作品としか言いようが無い」との見解。

>> >> どうもカウベルの言葉は牛の首に下がっているイメージりですが要するに、吊り下げて舌を内面に当てて音を鳴らすということですね。
>> 半島ではカウベルの言葉のイメージ通りの使われ方をしていたと思いますよ。
>> 装飾も殆んどありませんし。
 今でも使われていて、蛇(マムシ)除けだと言う人がいますが、蛇って耳無いっしょ。(^。^)

>> >> 東奈良の銅鐸を除く畿内の大型銅鐸は本来の使われ方とは
>> >> ひょっとする埋納されるべきあるいはどこかに置いて見るための祭器になった四葉座金具のように、可能性もある。
>> そのとおりでしょう。
 北九州市では三回埋納、取出しされた銅矛が発見されています。
 普段は地中に保管しておいて、祭りの時に取り出して使ったのではないかと言われています。

>> >> 要するに単純な銅鐸文化圏(畿内)銅剣文化圏(九州)
>> >> 両方接点(出雲神庭荒神谷)
>> >> 2分法による理解のしかた間違っているんですかね。
>> >> どう考えられるますか?
>> 「出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)」と言う事は、九州の工人が出雲に渡り、出雲で銅鐸や銅剣を作っていたと考えるのが自然で文化圏の対立は無かった。
 鋳型が同じとされています。
 以前から、出雲から出土する銅剣について「メイドイン佐賀平野」説があったようです。(^_^;)

>> 畿内だけが特殊だったことになります。
>> おそらく畿内では銅鐸に霊魂が宿る、銅鐸そのものが信仰の対象のような物に変質したのではないか。
>> そのため巨大化した。
>> 外来の古墳時代をもたらした異民族はこれが許容できなくて打ち壊した。
>> 出雲は銅鐸が単なる祭器だったので壊される事は無かった。
 権力の象徴としての武器型祭器より、農村祭祀に関連する“見る銅鐸”が尊ばれた?
 「記紀」にも「倭人条」にも無いのは、なして?


9

Re: 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [10月5日(金)14時56分00秒]

元の発言 [ 直線距離の測れない時代に、相対方位が測れたか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月4日(木)23時28分11秒 ]

三国志では張松が劉備に精細な絵巻の地図を与えたことに
なっていますが、これは作り話ですか?

方という計算の考え方は?
りっぱな算術だと思いますが。


91

Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月15日(月)22時34分36秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月15日(月)21時18分54秒 ]

>>  今でも使われていて、蛇(マムシ)除けだと言う人がいますが、蛇って耳無いっしょ。(^。^)

耳のついた蛇の顔想像してしまった。(爆

>>  北九州市では三回埋納、取出しされた銅矛が発見されています。
>>  普段は地中に保管しておいて、祭りの時に取り出して使ったのではないかと言われています。

錆びが加速したりする事を考えなかったんでしょうか?

埋めたり掘り出したりしていたとするととすると出雲のやつは異民族が襲来した時、埋められていて見つからず、そのままになった可能性がありますね。

>> >> 「出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)」と言う事は、九州の工人が出雲に渡り、出雲で銅鐸や銅剣を作っていたと考えるのが自然で文化圏の対立は無かった。
>>  鋳型が同じとされています。

そうだったんですか。
でも銅鐸の鋳型ってあちこちで見つかっているでしょう?

>>  以前から、出雲から出土する銅剣について「メイドイン佐賀平野」説があったようです。(^_^;)

弥生時代の出雲と北九州の交流の密さを象徴していますね。

>>  権力の象徴としての武器型祭器より、農村祭祀に関連する“見る銅鐸”が尊ばれた?
>>  「記紀」にも「倭人条」にも無いのは、なして?

畿内まで魏使が行っていなかったからでしょう。
それから銅鐸を祭器として使っていた弥生人と天孫族はつながりが無いからです。
7、8世紀に畿内で銅鐸が見つかったが、畿内の人々は何なのか判らず不思議がったと何かに書いてあったような記憶があります。



92

Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月15日(月)23時44分38秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月15日(月)06時39分43秒 ]

>> スサノオは新羅に蒔こうとして種を持っていったのに蒔かずに日本で蒔い
>> た訳ですよね。日本の種を日本で蒔いた。やや矛盾があるような。


別におかしくないです。

縄文時代の三内丸山遺跡では,
良質な実の採れる栗の木を意図的に植林していたのではないか,
と言われています。

また,イザナミ神話を読み解くと,「子」を呼ぶ単位を「木(け)」で表しています。「子の一つ木」とかの用法。

また,「ヒルコ」なども見方によっては,弱い苗木を思わせるところがあります。

どうも,樹木に強い関心があったらしい。

親木が同じでも,実生にしろ挿し木にしろ,育ち方は一様でなく,
育ちの良い悪い,実つきの早い遅い,などの差があります。
いずれにしろ苗木の数は採れますから,
芽が出ても,弱い苗木は,たいてい早めに捨ててしまうでしょう。

>> >> # 万葉集かなにかに情景描写があったはずなので探してます。


万葉集春雑歌 一八七四 柿本人麻呂

古の人の植ゑけむ杉が枝にかすみたなびく春は來ぬらし
 


でした。(岩波文庫版) サイトで検索しても,いろいろ出てきます。
柿本人麻呂も帰化系です。

>> 伊利之は高麗人です。
>> スサノオの生まれた高天原は高句麗で、追放されて新羅に降り、
>> 新羅から出雲に来たと考えればスッキリします。


たぶん,そうくると思ってました。この推理,いわゆる騎馬民族派の他,
スキュタイ神話派が喜ぶかもしれません。

極東での高句麗人,韓人,倭人などの対中国意識が潜んでいるとしたら,
なおさら興味深いですね。


植林関連をひっくるめて,興味深い話のあるサイトが,インパクにありました。


インタビュー 『時間都市の解読装置』/佐藤宏之先生(考古学者)
http://inpaku.kajima.co.jp/dfo/ws/interview_satoh.html
「あれが禿山化するのは漢の時代、その時代以降に大船団を造ったり大開拓を行うのです。」
「漢民族ってとんでもない、すごいことするのですね。それだけやって、その後日本が入って木を植えるのです。朝鮮半島もそうですね。今、朝鮮半島に生えている木というのは日本が戦前植林したものが多くあります。」
「漢民族の伐採の仕方はすごいですね。」


ということは,漢人戸来という集団は,実は,
韓国で木を伐り過ぎて捕まったらしい,,,(^^;

>> >> 韓伝魏略に出てくる「漢人戸来」の集団は材木関連みたいです。

>> 色々憶測できそうな集団ですね。

というわけで,漢人戸来という集団が伐採専門であったとしたら,
半島で「木を植えろ運動」が起きていたかもしれない,と推理すると,

>> なるほど、それは一理ありかな?日本の植林技術は半島では通用しなかっ
>> たと言う訳ですね。


罪人スサノヲでも,木を植えてくれるなら韓国に来てくれ,
という話になったかもしれず,渡韓したが,

中国系の監視が厳しくて思うにまかせず,帰ってきた,
とかなんとかの推理も可能かも。

スサノヲなる者,船材用の植林は商売になる,
という目利きに変身していたかもしれませんね。

自然観や林野観は別として,
中国ふうの国作りの政治的な端緒と絡むかもしれず,
かなり興味深いです。




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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月16日(火)13時24分08秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月15日(月)21時18分54秒 ]

>> 牛頭天王さん、オヤジっちっちさん、こんおはようございます。


>> >> >> >>  一番有名なのは、吉野ヶ里出土の福田型25.5センチ。ついでに、出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)です。
>> >> この位大きいともう実用品では無くなっていたでしょうね。
すでに半島での使われ方忘れられていたという訳ですね。
半島から工人渡来説怪しいもんですね。
>> >> 大と小の境目は凡そ20cmだそうです。
>> >> どうも日本製は紐を通して使った形跡が見られなかったので(磨耗がない)手で振って音を出したと思われます。
>> >> 30cm、40cmでは手で振るのは大変。
たしかにまさか弥生人がコーカソイドのように現代人より大柄というわけ無いし。
>>  テレビ朝日(ニュースステーション)で鳴らしてましたヨ、確かぶら下げて。

>> >> >> 東奈良の銅鐸はあんまり大きくないのではないのですか?初期のものだと納得がいく。
>> >> 14,5CMくらいだったような。これも内側に磨耗痕と舌が見つかっている筈です。
>>  高さ14.2センチ、最大幅9.1センチ、重さ七百五十グラムで、日本最古の“日朝混血”銅鐸と言われています。
>>  佐原真氏は「後の銅鐸の規格から外れており、極初期の試作品としか言いようが無い」との見解。
そうでしょうそうじゃないと論理がすっきりする。
別に畿内に半島ノ渡来人が直接きてもいいわけで
なにも一旦九州勢力が畿内を征服したと考える必要はないわけです。

>> >> >> どうもカウベルの言葉は牛の首に下がっているイメージりですが要するに、吊り下げて舌を内面に当てて音を鳴らすということですね。
>> >> 半島ではカウベルの言葉のイメージ通りの使われ方をしていたと思いますよ。
>> >> 装飾も殆んどありませんし。
そうでしょうとも。
>>  今でも使われていて、蛇(マムシ)除けだと言う人がいますが、蛇って耳無いっしょ。(^。^)
確かに半島っては虎がいたでしょ。虎熊除けにはなりそう。
>> >> >> 東奈良の銅鐸を除く畿内の大型銅鐸は本来の使われ方とは
>> >> >> ひょっとする埋納されるべきあるいはどこかに置いて見るための祭器になった四葉座金具のように、可能性もある。
>> >> そのとおりでしょう。
うむうむ。
>>  北九州市では三回埋納、取出しされた銅矛が発見されています。
>>  普段は地中に保管しておいて、祭りの時に取り出して使ったのではないかと言われています。
そうなんですよ半島ではそういう風習は聞かないでしょ
中国の洞庭湖近辺の銅鼓くらい見当たらない。
>> >> >> 要するに単純な銅鐸文化圏(畿内)銅剣文化圏(九州)
>> >> >> 両方接点(出雲神庭荒神谷)
>> >> >> 2分法による理解のしかた間違っているんですかね。
>> >> >> どう考えられるますか?
>> >> 「出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)」と言う事は、九州の工人が出雲に渡り、出雲で銅鐸や銅剣を作っていたと考えるのが自然で文化圏の対立は無かった。
>>  鋳型が同じとされています。
>>  以前から、出雲から出土する銅剣について「メイドイン佐賀平野」説があったようです。(^_^;)

出雲北九州は対馬海流でつながってますからね
>> >> 畿内だけが特殊だったことになります。
>> >> おそらく畿内では銅鐸に霊魂が宿る、銅鐸そのものが信仰の対象のような物に変質したのではないか。
>> >> そのため巨大化した。
そうですね。畿内は銅鉱石ってどこから調達したんでしょう?
>> >> 外来の古墳時代をもたらした異民族はこれが許容できなくて打ち壊した。
弥生時代かもしれないが。紛丘墓を風習を持って侵入した氏族でしょう。
>> >> 出雲は銅鐸が単なる祭器だったので壊される事は無かった。
或いは畿内勢力が侵入したため
「こんな時代遅れ祭器つかいやがって」
というように眼中になかった。壊すほど気にも留めなかった。
という解釈はイかがですか
>>  権力の象徴としての武器型祭器より、農村祭祀に関連する“見る銅鐸”が尊ばれた?
>>  「記紀」にも「倭人条」にも無いのは、なして?

やはり3世紀には銅鐸は壊されてかなりたったから。だから
倭人条には無いんです。だって今の神社の御神体って銅鐸
ってことはないですよね。鏡或いは剣でしょ。
神社の縁起はどうも4世紀くらいまで遡れなさそう。


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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月16日(火)20時06分18秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 10月16日(火)13時20分39秒 ]

>> いや昔、銅鐸文化圏と銅矛文化圏に別れているとか、文化圏の対立があったかのような話があったと思いますが、出雲だけが両方並存出来た理由は何だろうと言う事です。

>>
>>
>>
そうそのとおり(外野からの声)
>>
>>
弥生時代を勢力圏を3分法2分法そういうの捉え方が古い



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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月16日(火)20時39分22秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 10月15日(月)22時34分36秒 ]

>> >>  今でも使われていて、蛇(マムシ)除けだと言う人がいますが、蛇って耳無いっしょ。(^。^)
>> 耳のついた蛇の顔想像してしまった。(爆
 キモーイ。(^。^)

>> >>  北九州市では三回埋納、取出しされた銅矛が発見されています。
>> >>  普段は地中に保管しておいて、祭りの時に取り出して使ったのではないかと言われています。
>> 錆びが加速したりする事を考えなかったんでしょうか?
北九州市・重富遺跡の竪穴住居址(後期前半〜後半)から出土の広形銅矛で、六回掘り出し、七回目に埋めて上を粘土で覆っていたそうです。

>> >> >> 「出雲木幡家伝世銅鐸の兄弟銅鐸(吉野ヶ里のが兄)」と言う事は、九州の工人が出雲に渡り、出雲で銅鐸や銅剣を作っていたと考えるのが自然で文化圏の対立は無かった。
>> >>  鋳型が同じとされています。
>> そうだったんですか。
>> でも銅鐸の鋳型ってあちこちで見つかっているでしょう?
ひれ部の三角文と複合鋸歯文、胴部の文様帯の位置が一致したそうで、鋳型が見つかったわけではないです。

>> >>  以前から、出雲から出土する銅剣について「メイドイン佐賀平野」説があったようです。(^_^;)
>> 弥生時代の出雲と北九州の交流の密さを象徴していますね。
そげんです。

>> 畿内まで魏使が行っていなかったからでしょう。
畿内には行っていない。

>> それから銅鐸を祭器として使っていた弥生人と天孫族はつながりが無いからです。
これはその通りでしょう。

>> 7、8世紀に畿内で銅鐸が見つかったが、畿内の人々は何なのか判らず不思議がったと何かに書いてあったような記憶があります。
鎌倉時代に偶然掘り出して、神社の境内だかに元の状態で埋め戻したってのもありませんでしたっけ。


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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [10月16日(火)21時27分26秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 10月16日(火)20時06分18秒 ]

>> >> >> いや昔、銅鐸文化圏と銅矛文化圏に別れているとか、文化圏の対立があったかのような話があったと思いますが、出雲だけが両方並存出来た理由は何だろうと言う事です。
>> >> 本当に昔ですねー。
>> >> それに、銅剣文化は中国地方が中心で、銅矛文化という
>> >> わけではない。
>> そうそのとおり(外野からの声)
>> >> 昨今では、従来いわれていた銅鐸、銅矛、銅剣といった
>> >> ものが、ますます混ざっていたことがわかっているし、
>> 弥生時代を勢力圏を3分法2分法そういうの捉え方が古い
 ただし、九州のは“聞く銅鐸”ばかりで近畿のような“見る銅鐸”はありません。
近畿では中期ころまでは銅鐸と銅矛・銅剣が同伴しているけど、広形銅矛のような大型の武器型祭器は出ない。
山口・宮ヶ久保では、木鐸と木剣・木戈が須玖2式期から出てます。
 祭祀のはじめの段階の祭器は鐸だけとか武器だけとかじゃなっかたのでしょう。


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Re: 銅鐸の扱われ方

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [10月16日(火)22時41分26秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸の扱われ方 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 10月16日(火)21時27分26秒 ]

>> >> >> >> いや昔、銅鐸文化圏と銅矛文化圏に別れているとか、文化圏の対立があったかのような話があったと思いますが、出雲だけが両方並存出来た理由は何だろうと言う事です。
 出雲で銅鐸祭器とする風習が残ったと考えては?記紀を見ると出雲は独立性たかそうな雰囲気前方後円墳体制にはいったのは一番遅そうな感じで一字代昔の風習に残りやすいという憶測はどうですか
或時期に畿内と限らず北九州も大型武器型祭器を主とする
風習が卓越した。

>> >> そうそのとおり(外野からの声)
>> >> >> 昨今では、従来いわれていた銅鐸、銅矛、銅剣といった
>> >> >> ものが、ますます混ざっていたことがわかっているし、
>> >> 弥生時代を勢力圏を3分法2分法そういうの捉え方が古い
>>  ただし、九州のは“聞く銅鐸”ばかりで近畿のような“見る銅鐸”はありません。
やはり地理上の距離による時間差とかんがえられませんか?
>> 近畿では中期ころまでは銅鐸と銅矛・銅剣が同伴しているけど、広形銅矛のような大型の武器型祭器は出ない。
>> 山口・宮ヶ久保では、木鐸と木剣・木戈が須玖2式期から出てます。
>>  祭祀のはじめの段階の祭器は鐸だけとか武器だけとかじゃなっかたのでしょう。



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Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [10月17日(水)07時28分08秒]

元の発言 [ Re: 土着信仰とアマテラス、スサノオ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月15日(月)23時44分38秒 ]

>> 縄文時代の三内丸山遺跡では,
>> 良質な実の採れる栗の木を意図的に植林していたのではないか,
>> と言われています。

>> また,イザナミ神話を読み解くと,「子」を呼ぶ単位を「木(け)」で表しています。「子の一つ木」とかの用法。

>> また,「ヒルコ」なども見方によっては,弱い苗木を思わせるところがあります。

>> どうも,樹木に強い関心があったらしい。

>> 親木が同じでも,実生にしろ挿し木にしろ,育ち方は一様でなく,
>> 育ちの良い悪い,実つきの早い遅い,などの差があります。
>> いずれにしろ苗木の数は採れますから,
>> 芽が出ても,弱い苗木は,たいてい早めに捨ててしまうでしょう。

>> >> >> # 万葉集かなにかに情景描写があったはずなので探してます。

>> 万葉集春雑歌 一八七四 柿本人麻呂

>> 古の人の植ゑけむ杉が枝にかすみたなびく春は來ぬらし

>> でした。(岩波文庫版) サイトで検索しても,いろいろ出てきます。
>> 柿本人麻呂も帰化系です。

有難う御座います。
三内丸山は植林の目的は食料の確保ですね。
それに対して神話=7,8世紀は建築資材(スサノオの体毛から生えた樹木類)が目的。
確か平城京を作るにあたって檜が不足していたとか。(うろ覚えですが何かに書いてあったような。)
杉は生長が早いので切迫した需要に対応するため植林に使われたのでしょう。
と言う事はスサノオ神話は7,8世紀の畿内事情を反映している?
三世紀頃はまだ存在していなかった新羅を往復していますしね。

>> >> 伊利之は高麗人です。
>> >> スサノオの生まれた高天原は高句麗で、追放されて新羅に降り、
>> >> 新羅から出雲に来たと考えればスッキリします。

>> たぶん,そうくると思ってました。この推理,いわゆる騎馬民族派の他,
>> スキュタイ神話派が喜ぶかもしれません。

>> 極東での高句麗人,韓人,倭人などの対中国意識が潜んでいるとしたら,
>> なおさら興味深いですね。

>> 植林関連をひっくるめて,興味深い話のあるサイトが,インパクにありました。

>> インタビュー 『時間都市の解読装置』/佐藤宏之先生(考古学者)
>> http://inpaku.kajima.co.jp/dfo/ws/interview_satoh.html
>> 「あれが禿山化するのは漢の時代、その時代以降に大船団を造ったり大開拓を行うのです。」
>> 「漢民族ってとんでもない、すごいことするのですね。それだけやって、その後日本が入って木を植えるのです。朝鮮半島もそうですね。今、朝鮮半島に生えている木というのは日本が戦前植林したものが多くあります。」
>> 「漢民族の伐採の仕方はすごいですね。」

>> ということは,漢人戸来という集団は,実は,
>> 韓国で木を伐り過ぎて捕まったらしい,,,(^^;

>> >> >> 韓伝魏略に出てくる「漢人戸来」の集団は材木関連みたいです。

>> >> 色々憶測できそうな集団ですね。

>> というわけで,漢人戸来という集団が伐採専門であったとしたら,
>> 半島で「木を植えろ運動」が起きていたかもしれない,と推理すると,

>> >> なるほど、それは一理ありかな?日本の植林技術は半島では通用しなかっ
>> >> たと言う訳ですね。

>> 罪人スサノヲでも,木を植えてくれるなら韓国に来てくれ,
>> という話になったかもしれず,渡韓したが,
>> 中国系の監視が厳しくて思うにまかせず,帰ってきた,
>> とかなんとかの推理も可能かも。

>> スサノヲなる者,船材用の植林は商売になる,
>> という目利きに変身していたかもしれませんね。

>> 自然観や林野観は別として,
>> 中国ふうの国作りの政治的な端緒と絡むかもしれず,
>> かなり興味深いです。

漢はなぜ半島でそれほどの木を必要としていたのでしょう。
船を作るだけではないと思いますが。大船団を作らなければならない事情があったようには思えませんが。

半島の木を船の為に切り尽くしたのは元と聞いていますが。